■ 今日の「井戸掘り」
「これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」 ペテロの手紙1:9
■ 井戸を掘りましょう:
この節の欄外註には、異本、すなわち、異なった系統の写本に、「たましい」と言う語の前に「あなたがたの」を加えている写本がある、と記されています。いずれにしても、人間を「たましい」と呼ぶことによって、聖書は人間を単なる肉体的な存在とは見ていないで、内的な存在と見ていることを示しています。
近年、死の概念に従来の心臓停止による死の判定に加えて、「脳死」と言う概念が加えられました。心臓は医療機械の助けによって依然として動いていても、脳幹が機能しなくなったとき、その人は死んだものとして、その人、または、その家族の意思表示があれば、身体は臓器移植のために廻されます。この死の概念の変化にも、人間の存在は肉体的存在を越えた「意識」と言ったものにあることを示しています。「たましい」と、この意識と全く同一ではないかもしれませんが、聖書は、内的な存在しての人を「たましい」と呼ぶのです。
信仰の結果として与えられるのは、この「たましい」の救いであると、この節は教えています。「たましいの救い」に対する概念は「からだの救い」と言えましょう。それは、「終わりのときに現されるように用意されている救い」(5節)で、それに与るには「終わりのとき」まで、待たなければなりません。しかし、その時が来ると、一度死を通過した信仰者の肉体は、キリストの復活に与って、朽ちないからだへとよみがえらせられることを意味しています。
それに先立つ「たましいの救い」とは、それではどのような内容を有しているのでしょうか。18節には「むなしい生き方から贖い出された」と言う句があります。22節には「たましいを清め、、、」とあり、23節には「あなたがたが新しく生まれたのは、、、」ともあります。こうした表現はみな、「たましいの救い」に関連した事柄です。「たましいの救い」とは、その人の人格の深奥に始まった神の恵みの御業です。それによって、その人は「新しく生まれ」、また「たましいを清め」、「むなしい生き方から贖いだされた」のです。
■ キリスト、ペテロの足を洗う