. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第20講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」                 ペテロの手紙1:8A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ルーテル派の人々は、信仰を強調します。彼らにとっては信仰義認こそが、キリスト教の土台です。カリスマ派の人々は、喜びを強調します。聖霊に満たされて異言を語るとき、経験する恍惚感と喜び、それが彼らの宝物です。

   しかし、ペテロはここに、主イエスを「愛し」、「信じ」、「喜びにおどる」と言っているのです。信仰や喜びに先立って述べられているのが「愛」です。信仰も尊いものです。喜びも素晴らしいものでしょう。しかし、クリスチャンにとって、最も強調され、心に留められるべき事柄は、私たちの主イエスに対する愛なのです。信仰は、その愛への手段であり、喜びは、その愛の結果だからです。

   「見たことはないけれども、イエスを愛し、、、」とは、なんと素晴らしい信仰の姿でしょうか。私たちも、主イエスを見たことはありません。ただ、聖霊によって、主イエスが私たちのうちに啓示されたことを頷いているのです。そして、主イエスを愛するに至りました。聖霊が、心中に与えてくださった神的な愛が始まったのです。主イエスをこよなく愛して生きること、これこそがクリスチャン生涯の真骨頂ではないでしょうか。J・ウエスレーは、神的な愛をクリスチャン生涯の中心に据えたことで知られています。

   ペテロは、「イエスを愛し」と書き綴った時、きっと、あのガリラヤ湖畔での復活の主イエスとの出会いの場面を思い起こしていたに相違ありません。主イエスは、後悔の念と失意の中にあるペテロに近づいて、「わたしを愛しますか」と尋ねられました。「このものどもに勝って、わたしを愛しますか。」「ハイ。それは、あなたがご存知です。」この信仰生涯を「イエスを愛して」、ペテロの手紙の読者のように、たとえ迫害の中にあっても生き抜こうではありませんか。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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