■ 今日の「井戸掘り」
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」 ペテロの手紙1:8
■ 井戸を掘りましょう:
ペテロは、主イエスを目の当たりに見た人物でした。ヨハネと同様、彼は、主イエスについて、「初めからあったもの、私たちが聞いていたもの、目で見たもの、じっと見、また、手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」と言うことができた人物でした。
それに対して、ペテロの手紙の読者は「イエス・キリストを見たことはない」し、また、「いま見てはいない」のです。しかし、復活されたイエスによって教会に注がれた聖霊によって、彼らは主イエスを知るに至ったのです。そして、イエスを愛し、信じ、喜びにおどっていると言われています。イエスを知るとき、わたしたちの心と生涯には、愛と信仰と喜びが生まれるのです。
彼らは「栄えに満ちた喜びにおどっていま」した。ダビデは、バテシェバと関係し、主である神のみこころに反し、罪を指摘されたとき、その痛みと苦しみの中で「あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私を支えますように」と祈りました(詩篇51:11、12)。」キリストの救いには、喜びが伴います。最初の弟子たちも、同族のユダヤ人からの激しい迫害の中で、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」と言われています(使徒の働き5:41)。
喜びの伴わない信仰生涯は、律法主義のわなに陥った信仰生涯で、標準的なクリスチャン生涯ではありません。それは、たぶらかされて正道から逸れてしまった信仰の姿です。主イエスを知っていることには、大きな喜び、満ち溢れる喜びが必ず伴います。
勿論、人生のさまざまな試練の中で、苦しみ、悲しみ、痛みを経験しないと言うのではありません。嵐によって大海の海面は波立つことも、しばしばあるでしょう。しかし、海の深みは、常に静けさを湛えているように、クリスチャンの心の奥には、キリストにある喜びと平和が支配しているのです。
■ キリスト、ペテロの足を洗う