■ 今日の「井戸掘り」
「あなたがたの信仰の試練は、火を通して精錬されなお朽ちてゆく金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに賞賛と光栄と栄誉になることがわかります。」 ペテロの手紙1:7
■ 井戸を掘りましょう:
クリスチャンが試練に出遭って、痛み、苦しみ、悲しみ、時として、悩み、混乱することは、必ずしも悪いことではありません。何故なら、ペテロによると、やがての時、それが「賞賛、光栄、栄誉になる」からです。ペテロはそのことが解かると書き送っています。ヤコブも「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」と書いています(ヤコブ1:2)。信仰が試されると忍耐が生じ、その忍耐を働かせることによって、成長を遂げた、完全な者になる、と言うのです。
さて、ここに、ペテロは、神との関係において、試練の価値を指摘しています。すなわち、「イエス・キリストの現れのときに」、父なる神から「賞賛と光栄と栄誉」を受けるのだからです。子どもにとって、父親から褒めてもらうことほど嬉しいことはありません。神の子たちにとっても、霊の父から褒めていただくことはこの上なく嬉しいことなのです。ヤコブは、ペテロと違って神との関係からではなく、信仰者自身の生涯との関係で、試練の意味を論じています。すなわち、試練が彼らの品性に及ぼす影響と言う観点からです。試練は忍耐を生み出します。そして、「その忍耐を働かせることによって、成長を遂げた、完全な者になる」と言っているのです。
ペテロは、後に、2章2節に「、、、成長し、救いを得るためです」と書いていますが、ここでペテロが言う「救い」とは、「完全な者になる」という内容の救いと考えられます。忍耐を初めとして、その他のクリスチャンらしい品性、いわゆる御霊の実、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)などが、豊かに実り、主イエスの御姿に似た者として変貌されるのです。それがヤコブが書いている「完全な者になる」と言うことの意味するところではないでしょうか。
ヘブル人への手紙の記者も、同様の真理について書いていて、「主の凝らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられるからである」とあります(ヘブル12:5、6)。霊の父がその子らを懲らしめる目的は、「私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして」なのです。「完全の者」とは、御父の聖さにあずかった状態の人を指します。それは、人生の訓練、すなわち、試練を通して達成される状態です。
こうしてみると、クリスチャンが成長するために、幾つかの要素があることが判ります。すなわち、真の霊の乳であるみことば(Tペテロ2:2)と、聖霊の働き(ガラテヤ5:22)、そして、人生における試練(ヤコブ1:2、ヘブル12:10)です。
■ キリスト、ペテロの足を洗う