■ 今日の「井戸掘り」
「そういうわけで、あなたかたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、、、。」 ペテロの手紙1:6
■ 井戸を掘りましょう:
クリスチャン生涯を特徴づけるものに、「愛」、「信仰」と「望み」のほかに「喜び」があります。その「喜び」は、信仰のない人が味あうような、物の豊かさからくる喜びではなく、キリストを見出し、このかたを知ったことから来る喜び(8節)です。
ネヘミヤは、「主を喜ぶことは汝らの力なるぞかし」(文語訳)と言いました。新改訳聖書では、この句は「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」と、「主の喜び」(NIV)を文語訳のように目的格で解釈しないで、主格で理解しました。しかし、ネヘミヤの時代の人々の悲しみ、喜びを語っているこの文脈からは「主の喜び」を、「主を喜ぶことは、、、」と目的格として理解したほうが適しているように判断します。「主を喜ぶ」こと、それは物の豊かさから来る喜びではありません。主ご自身に喜びの泉があるのです。神の民がもっている喜びは、いつの時代にも、このようなものです。
故郷を追われ、遠く異国の地に寄留すると言う厳しい生活環境も、キリストに依り頼む人々の喜びを奪うことはできませんでした。クリスチャンは、どのような環境にあっても、いつの時代にも「喜ぶ民」です。「喜び」といえば、パウロの書いたピリピの教会への手紙を思い起こします。幽囚書簡と言われるように、この手紙を書いたとき、パウロはローマにあって軟禁状態にありました(使徒の働き28:30)。パウロの環境は厳ししものでしたが、それでもパウロは喜びを見失っていませんでした。彼自身、主にあって大いに喜び、ピリピの人々に喜ぶように書き送っているのです。
さまざまな試練の中での悲しみは、しばらくの間であると書かれています。悲しむこと自体は、信仰と矛盾しません。神は、涙のうちに不思議な力を備えていて、泣くことによって、癒される恵みを備えておられます。悲しい時には泣くこと、涙することも大切です。信仰者だから、といって、歯を食いしばって生きなければならないのでなく、悲しい時には泣き、嬉しい時には喜ぶ、自然体なのです。そして、私たちは「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣き」ます。
■ キリスト、ペテロの足を洗う