. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第33講
■ 今日の「井戸掘り」

   「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。」              ペテロの手紙1:20 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   19節の「キリストの、尊い血によったのです」とのキリストの「血」への言及は、キリストの人性を語っています。それに対して、20節はキリストの神性を物語っています。「世の始まる前から知られていました」とありますが、「世の始まる前から」であれば、知っておられた方は、父なる神以外の存在ではありえません。また、知られていたということは、既にキリストが「世の始まる前から」存在していたことを暗示しています。すなわち、三位一体の第2位の神・神のロゴスとして、キリストは先在しておられたのです。ヨハネは「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と言う句で、その福音書を書き始めました。

   「キリストは、、、あなたがたのために、現れてくださいました」における「現れてくださいました」との句は、キリストの誕生が、普通の人の誕生と異なっていたことを示しています。人としては、「生まれた」でしょうが、神としてですから「現れてくださいました」なのです。それは「この終わりのときに」でした。キリストの出現は、一つの時代を画するもので、キリストの誕生によって、時代は動いて「終わりの時」が既に始まったのです。

   この終わりの時は、イザヤによると二つの区間に区分されています。すなわち、「主の恵みの年」と「われわれの神の復讐の日」とです。この「終わりの時の」最初の部分が、キリストの出現によって始まりました。ですから、主イエスは、故郷のナザレの会堂でイザヤ書をひも解いて、その61章を朗読され、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と宣言されました。パウロに言わせれば「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Uコリント6:2)。そのとき「われわれの神の復讐の日」の部分を読まれなかったことが、しばしば指摘されています。「終わりの時」にはなっていても、「神の復讐の日」はまだ来ていなかったからです。「主の恵みの年」と「われわれ神の復讐の日」という「年と日」の使い分けに注目しましょう。恵みの年のほうは長く、復讐の日は、それに比して短いからでしょうか。

   最後に「あなたがたのために」との句ですが、これは限定贖罪説を支持するものではありません。信じた「あなたがたのために」、であると共に、まだ信じていない人々のためでもあるのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。ここに「世」とは、全人類を指しています。それは、パウロの「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを願っておられます」(Tテモテ2:4)ということばからも明らかです。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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