■ 今日の「井戸掘り」
「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。」 ペテロの手紙1:20
■ 井戸を掘りましょう:
19節の「キリストの、尊い血によったのです」とのキリストの「血」への言及は、キリストの人性を語っています。それに対して、20節はキリストの神性を物語っています。「世の始まる前から知られていました」とありますが、「世の始まる前から」であれば、知っておられた方は、父なる神以外の存在ではありえません。また、知られていたということは、既にキリストが「世の始まる前から」存在していたことを暗示しています。すなわち、三位一体の第2位の神・神のロゴスとして、キリストは先在しておられたのです。ヨハネは「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と言う句で、その福音書を書き始めました。
「キリストは、、、あなたがたのために、現れてくださいました」における「現れてくださいました」との句は、キリストの誕生が、普通の人の誕生と異なっていたことを示しています。人としては、「生まれた」でしょうが、神としてですから「現れてくださいました」なのです。それは「この終わりのときに」でした。キリストの出現は、一つの時代を画するもので、キリストの誕生によって、時代は動いて「終わりの時」が既に始まったのです。
この終わりの時は、イザヤによると二つの区間に区分されています。すなわち、「主の恵みの年」と「われわれの神の復讐の日」とです。この「終わりの時の」最初の部分が、キリストの出現によって始まりました。ですから、主イエスは、故郷のナザレの会堂でイザヤ書をひも解いて、その61章を朗読され、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と宣言されました。パウロに言わせれば「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Uコリント6:2)。そのとき「われわれの神の復讐の日」の部分を読まれなかったことが、しばしば指摘されています。「終わりの時」にはなっていても、「神の復讐の日」はまだ来ていなかったからです。「主の恵みの年」と「われわれ神の復讐の日」という「年と日」の使い分けに注目しましょう。恵みの年のほうは長く、復讐の日は、それに比して短いからでしょうか。
最後に「あなたがたのために」との句ですが、これは限定贖罪説を支持するものではありません。信じた「あなたがたのために」、であると共に、まだ信じていない人々のためでもあるのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。ここに「世」とは、全人類を指しています。それは、パウロの「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを願っておられます」(Tテモテ2:4)ということばからも明らかです。
■ キリスト、ペテロの足を洗う