. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第32講
■ 今日の「井戸掘り」

   「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの血によったのです。」              ペテロの手紙1:18、19 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「先祖伝来のむなしい生き方」とは、律法の義を求める生き方でしょう。これは、ヘブル人への手紙の記者が言う「まとわりつく罪」(ヘブル12:1)で、人は生まれながらにして律法主義者・善行主義者だと言われるように、キリストを信じ依り頼んで救われることではなく、何か善いことを積み上げて、その功績によって受け入れてもらおうという気持ちが強いのです。しかし、どのように地上で功績を積み上げても、それが天国に届く梯子になることはありません。善行、律法の遵守は、御国への資格として認めていただくのには寸足らずです。しかし、それにも拘わらず、人は、善行によって受け入れてもらおうと「空しく」努力を重ねます。自己過信と言う罪の支払う報酬は、結局のところ、死であり、永遠のいのちに至ることはありません。

   日本の通貨である円は、日本国内では通用します。しかし、他の国へ行けば、その国の通貨を使用することが必要であるように、善行は、この地上では意味がありますでしょう。しかし、それが御国に関することとなると、最早、意味をなさないのです。御国では、信仰と言う通貨が用いられるのだからです。

   キリストに依り頼んだ人々は、その信仰によって「空しい生き方から贖いだされ」ました。そのために払われた代価が「銀や金のような朽ちる物ではなく」キリストの尊い血だったのです。「血」は、十字架の上でのキリストの死を指さしています。「血」そのものに効力があるのではなく、十字架上の死が、私たちの為の身代わりの死として、御父に受け入れられたことに意義があります。

新約聖書の時代、奴隷たちを買い戻すためには「銀や金」が役立ったことでしょう。しかし、人のたましいを贖うには、費えが多くて(詩篇49:9)、金銀では間に合いません。キリストの血、キリストの十字架による死のみが、神の御前に有効なのです。神がそれを可とされ、嘉納されたからです(イザヤ53:10)。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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