■ 今日の「井戸掘り」
「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」 ペテロの手紙1:17
■ 井戸を掘りましょう:
「日常生活の聖め」に生きようとするとき、「心と性質の聖め」が不可欠となることは、既に心を向けました。聖霊によって潔められた心とは、17節の表現を用いれば「御父を畏れかしこむ心」だと言えます。御父に対する畏敬の念こそが、聖い生涯への動力なのです。新改訳では漢字の制限上でしょうか、「恐れかしこむ」となっていますが、日本語ではこの「恐れ」と本来の意味である「畏れ」では、大分意味合いが異なります。前者は「こわがること」であり、後者は「かしこまること」だと辞書にあります。
神の家族にあって、御父を畏れかしこんで生きるとき、神の子らたちの生き方は注意深いものとなります。なぜなら、この地上生涯を締め括った後、やがてのとき、神の御前でさばかれる時、すなわち、すべての人の人生・生き様が、神によって評価されることを知っているからです。神の裁きは「公平」であると書かれています。神の子だからと言って、えこひいきされることはありません。
地上生涯は短く「しばらくの間」です。それに対して、裁きの後に過ごす永遠の世界は、正に、永遠です。神の裁きの座での評価によって、人の永遠が決まります。どこで、どのような永遠を過ごすかは、現在の地上生活の質にかかっているのです。ですから、信仰者は御父を畏れかしこんで、しばらくの間を、聖く生きようとします。
「聖き生涯」の背後にある動機は「畏れ」のみではなりません。「さばかれる方を『父』と呼んでいるなら」とあるように、それは御父への「愛」から、、、です。聖めの生涯を目指すに際して、J・ウエスレーが強調したのは、この後者の「愛の動機づけ」でした。
■ キリスト、ペテロの足を洗う