. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第30講
■ 今日の「井戸掘り」

   「それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」              ペテロの手紙1:16A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「あなたがたも、聖でなければならない。」それは、先ず「あらゆる行いにおいて」です。しかし、「あらゆる行いにおいて聖なる者になる」ためには、心と性質が聖とされなければ不可能でしょう。神の御業が聖という性質を帯びているのも、神ご自身がその性質・本質において聖だからです。あらゆる行いにおいて聖なる者とされるためには、先ず、心と性質がキリストの御姿に似たものと変えられる必要があります。

   「、、、なければならない」と言う表現は、それが義務であることを語っています。しかし、神が、人に「、、、なければならない」、「、、、すべし」と言われる時、それは、義務として語られるだけではなく、そこに約束が含まれているれていることに気づく人は幸いです。神の命令は、また、神の約束でもあるのです。「、、、、しなさい」は「、、、してあげよう」の意を含んでいます。15節で「聖なるものとされなさい」とあって、「聖なるものになりなさい」ではないことを注目しましょう。

   信仰者は、自分の努力で「聖なる者になる」のではなく、恵みによって、聖霊の関与によって「聖なるものとされる」のです。それを取り間違えると、ガラテヤの信徒のように、律法主義の罠に入り込んでいってしまいます。霊的な歩みの中に、修業的な要素が皆無ではありません。しかし、それは、他の宗教において見るような勤行的なものではなく、聖霊の働きを妨げないで、その恵みを受け入れるという信仰的なものです。

   「あなた方も、聖でなければならない」と言うとき、その権威を「書いてある」と聖書に求めている態度に注目しましょう。なにの権威によって、、、ということは、私たちの人生において大変大切なことです。神のことばに書かれているゆえに、この命令・約束は、一層重たい意味をもって、私たちに迫ってきます。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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