■ 今日の「井戸掘り」
「それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」 ペテロの手紙1:16
■ 井戸を掘りましょう:
15節には「あらゆる行いにおける」聖め、日常生活の聖めが、明らかに教えられています。しかし、16節に進むと、その理由として「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書かれているのです。
神の成す御業が「聖い」という特徴を有しているだけではなく、神は、その本質・性質においても聖なるお方です。それで、人の「聖」も、単に「あらゆる行いにおいて」だけではなく、その性質においても「聖」であることが期待されている、と推論することができます。神学を展開するに当たって、ある教理の論拠として、聖書の明言が第一の位置を占めますが、適切な推論も論拠になりうるのです。聖書には神の「三位一体」という教理は明言されていません。しかし、聖書のさまざまな箇所を総合して推論すると、聖書は「三位一体」という教えを語っていると結論づけざるを得ないのです。明らかに推論の結果として「三位一体」の教理は、正統的な教会では受け入れられています。
神が「聖である」とは、神が神であると言うのと同じで、聖は、道徳的な性質への言及である前に、神性にかかわる用語とされています。しかし、神の道徳的性質への言及も含むと考えるのが妥当でしょう。神は、神であるだけではなく、神であるがゆえに、聖であり、また、義であられるのです。
人は神に倣って、その性質においても、どのようにして「聖」とされることができますでしょうか。カルヴァン神学では、人は地上に肉体をもってあるかぎり、肉性からの聖め、生まれつきのアダムの性質からの聖め、は達成されないと教えています。それに対して、ウエスレアン神学では、聖霊の関与によって、聖めは、地上で、肉体をもったままで、経験し得るのだ主張されているのです。なぜなら、肉体そのものは、罪深いものではなく、肉体にあって存在していることは困難や課題はもたらすでしょうが、聖めを経験する妨げにはならないと考えているからです。ここに両者の相違があります。聖霊が来られ、キリストの愛をもって信じる者の心に内住し、心を内からキリストの愛で支配する時、「行い」のみか、その人の「性質」の聖めも始まるのです。心と性質が、罪への傾き易さから聖められたので、そこから生じてくるあらゆる行いも聖いものとなるのではないでしょうか。
■ キリスト、ペテロの足を洗う