. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第28講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなた方自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」              ペテロの手紙1:15 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい」とあるように、ここに語られ、命じられているのは「日常生活の聖め」であると言うことができます。ユダヤ人たちは、哲学的なギリシャ人たちと異なって、具体的な世界、目で見、手で触れられる世界に関心を抱いていました。それで聖めについて考えるに際しても、感覚で捉えられない原罪からの聖めよりも、具体的な日常生活の聖めについて語ったのでした。私たちの日常生活で使う言葉がきよいか、日々に行う行為がきよいかどうかでしたら、誰の目にも明らかです。18節には「むなしい生き方」という表現があります。彼らユダヤ人クリスチャンの関心事は「生き方」でした。

   聖化論が神学の一分野として展開されていった時、神学者や聖書学者たちは「しかし、心の聖めなくして、人はどのようにして、日常生活の聖めに生きることができようか」といって論じました。エルサレム会議の場で、あのペンテコステにおける聖霊傾注の出来事を想い起こして、ペテロは「人の心の中を知っておられる神は、、、異邦人にも聖霊を与えて、、、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです」(使徒の働き15:9)と語りました。

   しかし、ここに言及されている聖めは「心の聖め」と表現されていますが、第一義的には、神学で言う「初時的聖化」が意味されていて、いわゆるウエスレアン神学における「全的聖化」への言及ではないとすべきでしょう。11節に「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たち(カイザリヤの異邦人たち)もそうなのです」とありますし、また、使徒の働き10章のカイザリヤでの聖霊の傾注は、ペテロが「その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています」と説教している時(使徒の働き10:43)に起こったのでした。また、ペテロの報告を耳にしたエルサレム教会の信徒の反応も「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」(使徒の働き11:18)でした。

   彼らは「むなしい生き方から贖い出され」、そのような罪の生き方から生じた罪の咎を赦されたのです。キリストの血潮によって洗われたのです。神学でいわれる「初時的聖化」の経験でした。このような意味での聖めは、確かに出発点であって到達点ではありません。罪の赦し・初時的聖化の経験のあとに「日常生活の聖め」が続かなければ、それは意味がないと言っても過言ではありません。

   それでは、聖書はウエスレアンの神学者たちが展開した意味での「心の聖め」、すなわち、心を肉性からの聖め、アダム以来、人の心に生まれつき内住し、その人を支配している原罪からの聖め、について教えているのでしょうか。次回、この点を考察しましょう。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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