. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第64講
■ 今日の「井戸掘り」

   「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。」                 ペテロの手紙2:22 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   キリストは「罪を犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」とヘブル人への手紙(4:15)には書かれています。同じ試練が遅い掛かったのですが、キリストはあらゆる試練に打ち勝たれたのです。

   ウエストミンスター信仰告白には、人は、思いとことばと行動において罪を犯すと言われていますが、人が最も犯しやすい罪は、ことばの罪なのでしょうか。ここでは「その口に何の偽りも見出されませんでした」とことばの罪が、特記されています。ヤコブも「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」と書いています(3:2)。

   十字架に掛けられる直前の裁きの座において、大祭司の前に立ったキリストのお姿は印象的です。多くの偽証人たちが立てられてにもかかわらず、キリストは沈黙を守っておられました。しかし、大祭司が「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい」と迫ったとき、「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたはみることになります」と答えなさいました。大祭司は直ちに「神への冒涜だ。」と叫び、キリストを断罪しました。

   思いにおいても、ことばにおいても、行いにおいても、「罪を犯され」なかった方を、大祭司は、ことばの罪「冒涜」で断罪したのです。あり得ないことでした。キリストは「口には何の偽りも見出され」ない方ですから、キリストが語られたことは、真実以外の何ものでもありませんでした。「冒涜の罪」はキリストを十字架に追いやるための、ユダヤ人たちの口実に過ぎなかったのです。明らかに、それは「ののしり」でした。しかし、キリストは「ののしり返」しなさいませんでした。

高知県・越知町の大樽の滝

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