. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第63講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範をのこされました。」                 ペテロの手紙2:21A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   今までも、ウエスレアン・アルミニアンの立場と、カルヴァン主義の立場の相違に言及してきました。この「神の召し」に関しても、両者の間に、その理解に違いが認められます。ウエスレアン・アルミニアンの神学では、この神の招きは、普遍的にすべての人に投げかけられたと理解しています。キリストの死と復活は、すべての人の救いのためであって、キリストが十字架の上で成し遂げられた贖いの御業によって、すべての人の救いのための備えができたと理解するからです。

   それに対して、カルヴァン神学を継承する改革派神学では、「神の召し」を、救いに定められた人々にのみ与えられたものであると解釈します。救いに定められなかった人々、ことばを変えて言えば、滅びに定められた人々には、神の招きは与えられないとしています。限定的な贖罪説に基づいての理解です。

   J・ウエスレーが強く反発したのが、この限定贖罪説で、ウエスレーは、それを強く主張していた大陸のピューリタンと袂を分かつことになります。ウエスレーにとっては、限定贖罪説を受け入れることは、神を不公平なお方、人を偏り見る方と認めることになるからでした。また、ある人が滅びたとき、それはその人の責任ではなく、神の聖定によって、、、となり、滅びの責任を神に帰することになることを考えてでした。

高知県・越知町の大樽の滝

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