. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第62講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範をのこされました。」                         ペテロの手紙2:21 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   私たちは、自分の決意・決断によって、信仰の道に入ったと考えます。しかし、この聖句は、神の召しについて語っています。私たちが心を決する前に、それを促すために、神の側から招きが差し伸べられたのです。イニシャティブは、私たちの側にあるのではなく、神にあるのです。

   さて、そのような神の召しの目的はなにだったのでしょうか。それは、キリストの「足跡に従うように」と言う招きであり、神の御子であるキリストは、そのために神の御姿であられる方なのに、それを捨てることができないとは考えないで、人の姿で現れ、私たちに「模範を残されました。」 一人の人間として、この地上にあって、聖霊にあって生きるとき、どのような生涯が可能になるかを示されたのでした。

   また、この聖句は、キリストも「苦しみを受け」られたことを語り、「善を行っていて苦しみを受け」るとき、私たちがどのように振舞うべきかの模範を残されたと教えています。それは、そのような不当な苦しみを「耐え忍」んで、神の喜ばれると言うことでした。

   ここに「模範」と言うとき、間違えてはなりません。もし、私たちが、外的にキリストを模倣しようとするならば、その努力は失望に終わることでしょう。キリストの「足跡に従う」ためには、キリストと同じ、御霊の力を帯びる必要があります。すなわち、外的な模倣ではなく、聖霊によって、内的にキリストの御姿に似たものと変えられるときにのみ、キリストが歩まれたように歩むことが可能になるのです。

高知県・越知町の大樽の滝

Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる