■ 今日の「井戸掘り」
「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」 ペテロの手紙2:20
■ 井戸を掘りましょう:
人が味あう苦しみには、二種類の苦しみがあります。すなわち、「罪を犯したために打ちたたかれ」る苦しみ、と「善を行っていて」受ける苦しみとです。前者は、当然の報いですから「それを耐え忍んだからといって」褒められるようなことではありません。しかし「善を行っていて苦しみを受け」ることがあるのが、この世で、その時、どのように振る舞うかが問われています。
しかし、苦しみをこらえるならとは書かれていないで「悲しみをこらえるなら」(19節)とあることは興味深いことです。現実の苦しみ以上に、悲しみが問題なのです。すなわち、肉体に及ぼされた苦しみより、心に生じた悲しみとどう向き合うかなのです。なぜ「悲しみ」なのでしょうか。愛と正義の神が支配するこの世に、神に従わない人々がいることのゆえに、不当な苦しみがあることへの悲しみです。
そのような不当と言える苦しみを「耐え忍ぶ」ために、何が必要でしょうか。詩篇37編には「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(7節)と書かれています。主の前に静まることを知っているかどうかが、それが可能か否かの鍵となるのです。主の前に静まって、主のみこころを尋ねることです。ヤコブは「試練に耐える人は幸いです」といいました。それは「耐え抜いて良しと認められた人は、、、いのちの冠を受けるから」(ヤコブ1:12)なのです。また「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者になる」からです(ヤコブ1:4)。
神はそれを喜んでくださるのです。
