. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第61講
■ 今日の「井戸掘り」

   「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」                         ペテロの手紙2:20 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   人が味あう苦しみには、二種類の苦しみがあります。すなわち、「罪を犯したために打ちたたかれ」る苦しみ、と「善を行っていて」受ける苦しみとです。前者は、当然の報いですから「それを耐え忍んだからといって」褒められるようなことではありません。しかし「善を行っていて苦しみを受け」ることがあるのが、この世で、その時、どのように振る舞うかが問われています。

   しかし、苦しみをこらえるならとは書かれていないで「悲しみをこらえるなら」(19節)とあることは興味深いことです。現実の苦しみ以上に、悲しみが問題なのです。すなわち、肉体に及ぼされた苦しみより、心に生じた悲しみとどう向き合うかなのです。なぜ「悲しみ」なのでしょうか。愛と正義の神が支配するこの世に、神に従わない人々がいることのゆえに、不当な苦しみがあることへの悲しみです。

   そのような不当と言える苦しみを「耐え忍ぶ」ために、何が必要でしょうか。詩篇37編には「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(7節)と書かれています。主の前に静まることを知っているかどうかが、それが可能か否かの鍵となるのです。主の前に静まって、主のみこころを尋ねることです。ヤコブは「試練に耐える人は幸いです」といいました。それは「耐え抜いて良しと認められた人は、、、いのちの冠を受けるから」(ヤコブ1:12)なのです。また「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者になる」からです(ヤコブ1:4)。

   神はそれを喜んでくださるのです。

高知県・越知町の大樽の滝

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