. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第60講
■ 今日の「井戸掘り」

   「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」                         ペテロの手紙2:19 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   私たちの人生では、「不当な苦しみを受ける」ということが折々あります。そのような時、人は「なぜ、愛と正義と神がおられるのに、信仰者がこのような不当な目に遭うのか」と疑問に思います。

   簡単に解答を出すわけには行きませんが、その理由の一つには、この世は、罪の世であるからということに間違いはありませんでしょう。神を見失った世界に、正義を期待することはできないのです。

   そのような時「神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、、、」とペテロは書きます。神を信じ、神を知るがゆえに、不当といわれる扱いを受け、苦しむことがあっても、良心に反してまで苦しみから逃れるための策を講じることをしないで、そのような不当な苦しみを甘受するのです。人間ですから、悲しみの感情が、当然心に生じてきます。しかし、そのような悲しみは、神の喜ばれるものであるとペテロは言い切ります。

   20節にも、再び「神に喜ばれることです」と書いていますが、何を人生の目標として生きているのかが問われるのです。自分の利益、自分の安逸を求めて生きている人にはわからないことでしょう。しかし、神を喜ばせ奉ることを最高の願いとして生きてきるクリスチャンには、神の喜びこそ求めるべきものだからです。

高知県・越知町の大樽の滝

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