. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第66講
■ 今日の「井戸掘り」

   「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」                 ペテロの手紙2:23A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   地上生涯は、生まれた時から死ぬまで、不公平に満ち満ちています。豊かな家に生まれ、思いのままの教育を受ける機会を持つ人がいると思えば、貧しい家庭に生まれ、若いときから額に汗して働かなくてはいけない環境に育つ者もいます。

   人生を地上に生きている間だけで考えているかぎり、この不公平感はなくなりません。しかし、一旦、人生とは、そのようない短いものではなく、地上のいのちが終わった後、永遠の世界が続くのだと言うことを認識する時、不公平感が始めて解消するのです。来るべき世を思うとき、神の裁きのことを想い起こします。

   神は「正しくさばかれる方」として、この節に言及されています。神の裁きは公平で適切です。そこには、見過ちも偏り見ることもありません。その人が受けるべきものを正確に受けるように、神は判断・判決を下されます。間違われることはないのです。そしてパウロに言わせれば「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

   この「ただしくさばかれる方」がおられることを頷いて、そのお方のみこころに生きようとするのが、クリスチャン・ライフです。地上だけではなく永遠を見据えた生き方をするのが信仰者です。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)。そして、この確信の根底には、神のことばの保証があるのです。ただ、闇雲に望むのではなく、みことばの土台に立って、確信するのです。

   聖書は、明らかに永遠について語り、エホバの証人の人々が主張するように、たましいが消滅して、その人の存在そのものがなくなってしまうのではないことを教えています。

高知県・越知町の大樽の滝

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