. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第67講
■ 今日の「井戸掘り」

   「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」                 ペテロの手紙2:24 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」ここに十字架の崇高さがあります。十字架の死は自発的なものであり、また、代償的なものだからです。また、それは実効的でもありました。「それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」

   難行苦行も、深い瞑想も、どのような修業も、私たちの罪を赦し、解決する力はありません。人並み優れた修業をすれば、そこに密かに傲慢の罪が入り込んできます。深い瞑想に没頭すれば、社会から完全に隔離され、自己中心になります。自分だけの世界に生きることになるからです。罪は、存在の至るところにつき纏って、人を離れることがありません。

   しかし、十字架の恵みが分ると、私たちを愛してくださったキリストを愛するようになるゆえに、私たちは「罪を離れ、義のために生き始めます。「義のために生きる」とは、聖であり義である神のために生きることに他なりません。

   「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」ペテロは明らかに、伝道者ピリポ同様に、イザヤ書53章の「苦難のしもべ」を、主イエス・キリストと結びつけて解釈しています。この24節の最後の部分は、イザヤ書53章からの引用です。イザヤ書には「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」とあります。

高知県・越知町の大樽の滝

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