■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「『いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、、、』」 ペテロの手紙3:10
10節から12節までは、旧約聖書・詩篇34篇からの引用です。神の民は「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者」であるされています。
「いのちを愛する」とは、単に自分のいのちを大切に思うだけではなく、他のいのちをも尊重する姿勢です。更に言うならば、人間の命と共に、あらゆる生き物の生命も大切にする思いです。但し、仏教のように、輪廻の概念に従って、人のいのちと他の生き物のいのちを一体化し、あらゆるいのちを尊ぶというのとは異なります。キリスト教では、人のいのちは独自なもので、他の生き物のいのちとは区別されたものと理解しています。しかし、それは他のいのちを軽んじることではありません。
信仰者は自分の「いのちを愛」するがゆえに、自殺を悪と考えます。精神的な病いのゆえに、発作的に自殺へ走ってしまうことはあるかも知れません。そのような場合、私たちはただ神のあわれみが注がれることを祈って、そのようなたましいを主の御手に委ねることしか出来ません。そのような事態が起こらないように、普段から自殺防止のための教育が必要でしょう。死は、決して直面している問題の解決をもたらしませんし、すべてが終わるものでもありません。死の後の永遠のことを考えたら、そう安易に死を選ぶことは出来ないはずです。
誰しも「幸いな日々を過ごしたいと思」っているのではないでしょうか。しかし、何が幸いなのか、、、となると、その考えは千差万別です。この聖句は、幸せは、きよい生き方と無関係ではないことを教えています。幸いな日々を送ろうとする者は、「舌を押さえて悪を言わ」ないことが求められています。
大きな悪は、コントロールされていない舌から始まります。日本の諺に「偽りは盗み」の始まりと言われている通りです。心はことばに、思いは行動に現されます。幸いでありたいと思うなら、偽りを捨て、ことばの争いを避けましょう。
