. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第78講
■ 今日の「井戸掘り」

   「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」                                      ペテロの手紙3:9 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   第8節が主として、信仰者の間での善い行いのリストであるとすれば、第9節は、すべての人を対象とした善の行いと整理できるでしょう。悪を行い、信仰を侮辱し、祝福する代わりに呪う人々に対する「善」の行いです。

   それは、クリスチャンとして、そのような人々とは一線を画して、「悪をもって悪に報いず」、「侮辱をもって侮辱に報い」ない生き方をすることです。主イエスが言われた「目には目を。歯には歯を」ということばは、しばしば誤解されて、目に対して目をもって報い、歯に対して歯をもって報いることと受け止められています。しかし、主イエスはそのような復讐を正当化されたわけではありません。主イエスのことばは、復讐に走りやすい人の心を知って、その危険を指摘し、それを避けるようにと意図されたものです。

   すなわち、人は「目に対して」目を奪うこと以上の報復を願いますし、「歯に対して」歯を折ること以上の復讐を計画しがちだからです。2回打たれれば3回、4回、打ち返すのが人の常ですので、主イエスのことばは、そのようにしてはならないと言うことが意味されています。

   信仰者は、なされた悪にたいして、却って祝福することが求められているのです。クリスチャンたちは祝福を受け継ぎ、それを与えるために召されたと、ペテロは書いています。ここにおいても「悪」同様、ペテロの心にある「善」がどのようなものであったかが、わかりますが、それは一般的な「善」とは異なっています。すなわち、至高の「善」とは、神から受ける祝福であって、人がその恵みの管となることです。父なる神から祝福を受けて、それを周囲の人々に与える者となることが、最高に善いこととされます。

高知県・越知町の大樽の滝

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