. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第77講
■ 今日の「井戸掘り」

   「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」                                      ペテロの手紙3:8 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ペテロは先に「どんなことも恐れないで善を行えば、、、」と書きましたが、そのとき、どのようなことを「善」と考えていたか、混乱がないように、ここにそれを表明しています。人はそれぞれ「善」についての異なった思念を抱いています。

   ペテロがいう「善」とは先ず、クリスチャン同士の一致です。同じ教会に属する信仰者が分裂し、争いあうことほど悲しいことはありません。「あなたがたはみな、心を一つにし、、、。」

   「善」とは、次いで、「同情し合」うことです。直ぐ後に「あわれみ深く」とも書いていますが、英語(NIV)では、前者が「sympathetic」、後者が「compassionate」と訳されています。同義語です。双方とも「共に」と言うことが接頭語によって強調されています。強い立場の者が、弱い立場の者をあわれみ、同情を表すのではなく、同じプラットホームにたって「共」感することが、聖書的なあわれみ・同情です。その意味で、芥川龍之介が「蜘蛛の糸」と言う小説で描く、ひとりの悪人に示された仏の慈悲は、聖書的な意味ではあわれみとは言えません。

   この2つの語の間に「兄弟愛を示し、、、」とあります。「善いこと」は、先ず、兄弟たちの間で実践されなければなりません、兄弟を愛さない者が、どうして敵を愛することが出来ますでしょうか。8節の最後のことばは「謙遜でありなさい」です。しばしば、善いことに励む人々は、そのことをもって傲慢になりがちです。善行主義、すなわち、善行を積み重ねることによって救いに与れると考えている人々の罠は、正にここにあります。自分が善いことに励んでいると言う自覚・意識が、その人を謙遜の美徳から遠ざけてしまうのです。傲慢こそが堕落した天の使いが陥った最初の罪であり、諸悪の根源なのです。

高知県・越知町の大樽の滝

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