■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「『主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。』」 ペテロの手紙3:12
「幸せな日々」は、主との関係の親密さ、また、周囲の人々との平和の有無によって決まります。平和を追い求める者が聖きをも追い求める必要については、先回書きましたが、この聖きは主との関係によってもたらされるものです。それで12節には、「主の目」、「主の耳」、「主の顔」と、「主」が強調されています。
それにしても、義人との関係では「目」、「耳」と顔の個別的な部分が用いられ、悪者との関係では、ただ「顔」となっているのには、どのような意味があるのでしょうか。個別的な部分の名称の使用は、親しみの表れと理解してよいのでしょうか。「注がれ」、「傾けられる」という動詞にもその雰囲気が感じられます。
「義人」は「善を行う」ことが期待されており、それが当然とされていますが、ここで間違ってならないことは、彼らが「善を行う」ので、彼らが「義人」とされ、そのように認められるのではないということです。「義」は、主に依り頼み、主との関係が始まった時にはじめて、その人のものとなり、その人は「義人」と認められます。その人の他の行動とは一切無関係に、ただその人が主の許に立ち返って、主に依り頼むことを始めたという一事だけをもって、その人は「義人」とされるのです。
主である神が、「義人」と認めてくださった、また、してくださったがゆえに、主に依り頼んだその人は「善を行う」ようになったのです。主から受けた「義」が、信じる者の心と生涯に結実をもたらすのです。
これを神学では、「信仰義認」と表現します。すなわち「善行義認」ではないのです。宗教改革者のマルチン・ルッターは、このことが理解できないで、長い間「善行義認」を追い求め、苦しんだ果て、聖書を学んで、やっと「信仰義認」の真理を捉えました。
