. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第82講
■ 今日の「井戸掘り」

   「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」                                      ペテロの手紙3:13 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「あなたがた」と呼びかけられているクリスチャンが日々を過ごす社会が、神を同様に畏れ敬う社会でしたら、だれも「善に熱心」な「あなたがたに害を加える」ことはないでしょう。

   しかし、クリスチャンが置かれているこの世は残念ながらそうではありません。今も不従順な子らの中に働いている霊に従って、人は神を畏れ敬うことをしないで、自己中心的に生きています。ですから、神の子らは、次節にあるように「義のために苦しむことがある」のです。

   しかし、ペテロの「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」とのことばには、ペテロの社会に対する期待が込められています。すなわち、悪を行う人がいるにしても、多くの人々が神を畏れ敬って「善に熱心」であるように、ペテロは願っているのです。それは取りも直さず、教会の伝道が豊かな結実を見せた社会を夢見ているということです。

   「信仰」と「善行」は、樹木における根と実として、密接に結びついています。聖にして善なる神を信じる心が、善を喜び、それを追求する思いを生み出すのです。神を畏れ敬う人々が多ければ、他人の善につけ入って、悪を画策するひとは少なくなります。しかし、神への畏れが失われると、人は自己中心的になって、他人の善につけ入って、平然と悪をおこなうようになります。世俗社会では、ですから、必ずしも「だれがあなたがたに害を加えるでしょう」とは、単純に言えません。むしろ「義のために苦しむことがある」だけではなく、そのようなことが多いのです。現に、ペテロの手紙の読者たちは、主に信頼し善を行う人々でしたが、故郷を追われて、諸国に散らされていたのです。

高知県・越知町の大樽の滝

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