. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第83講
■ 今日の「井戸掘り」

   「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」                                      ペテロの手紙3:14 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   先に、ペテロは「善を行っていて苦しみを受け」ることがあることを書きました。そして「それは神に喜ばれることです。」とも。ここでは、「義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いです。」と書きます。2章の20節と3章の14節は平行しています神の御嘉納こそが人の幸いの真の源なのです。詩篇80篇には「神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます」とあります。

   さて、「善を行っていて苦しみを受ける」ようなことがあっても、彼らの脅かしを恐れたり、心を動揺させてはならないのです。なぜなら「あなたがたが召されたのは、実にそのため」(2:21)なのですから。

   恐れたり、動揺したりすることは、信仰者にとって望ましいことではありません。なぜなら、神により頼むとき、そのような事態からも守られ、そこに陥らないで済むのですから。クリスチャンには「キリストの平和がいつも心を支配している」状態にいることが可能なのです。

   キリストが共におられる時には、その在世中にそうであったように、どのような嵐が襲ってきても、主は、波風に向かって「静まれ」とお命じになられます。そうすれば「風や湖までが言うことをきいて」(マタイ8:27)静かになるのです。ローマ帝国による教会への迫害は、やがて、ローマが宗教の自由を与えるようになり、更には、キリスト教を国教とすることによって、終わりのときを迎えます。

高知県・越知町の大樽の滝

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