. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第84講
■ 今日の「井戸掘り」

   「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」                                      ペテロの手紙3:15 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ペテロは、読者のクリスチャンたちに勧めます。恐れたり、動揺したりしないで、「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい」、また「用意をしていなさい」と。

   クリスチャンの行動には、いつも二つの方向性が見られます。一つは、神・主に対する方向で、ここでは「キリストを心の中で主とあがめなさい」と勧められいることに見られます。もう一つは、人に対する方向性で、「用意していなさい」が、その方向性を示しています。

   第一の「キリストをあがめる」における「崇める」と言う用語は「聖なるものとする」と同じ語です。私たち人の場合「聖なるものとする」と言う場合、さまざまな汚れからきよめて、聖なるものとするということが意味されますが、キリストの場合、一切の汚れから遠いお方ですので「崇める」となります。元々聖なるお方を、そのように認識することが意味されています。

   さて、もうひとつの方向、人との関係において、クリスチャンはどのようであるべきでしょうか。ペテロは「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」と書きます。心の中にキリストを崇めて、恐れたり、動揺したりしないで、嵐のなかでも平然としていると、ある人はその態度・在り方に魅せられて、尋ねてくるようになります。

   クリスチャンは、どのような事態の中でも、希望を見失わない人々です。しかし、どれだけのクリスチャンが、質問を受けたとき、その理由を十分に説明できるように備えられているでしょうか。ここに、ペテロは「用意をしていなさい」と勧めているのです。

高知県・越知町の大樽の滝

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