. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第52講
■ 今日の「井戸掘り」

   「次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」                   ペテロの第二の手紙3:4 

■ 井戸を掘りましょう:

   あざける者どもが問題にしたのは、「キリストの来臨」でした。キリストの来臨は、最初のクリスマスにおいて成就した「初臨」と、再びキリストが来られる「再臨」との双方を差しますが、ここであざける者どもが意味したのは、どちらだったのでしょうか。

   ペテロの論旨の展開を見ますと、ペテロは明らかに、キリストの再臨と受け止めていました。しかし、あざける者は、そもそもキリストの初臨を受け入れていなかった可能性も否定できません。「創造の初めからのまま」と言う表現が、それを示唆しています。彼らはユダヤ人ですから、メシヤ(キリスト)の来られたことさえ、否定し、「何事も創造の初めからのまま」だと批判していた可能性もあります。

   ペテロにとっては、クリスマスの出来事は否定できない歴史的な事実でしたから、彼は、あざける者どもが取り上げているたのは、キリストの再臨と受け止めましたが、あざける者どもにとっては、キリストの再臨は論外だったかも知れません。ペテロが「キリストの来臨」を再臨の出来事を指すと受け止めたのには、理由があります。それは、今展開している文脈が、裁きという文脈だからです。

   キリストが最初に来られた時は、世の救い主として来られました。第二回目に来られる時は、王として、また、裁き主として来られるのです。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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