. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第53講
■ 今日の「井戸掘り」

   「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によってなったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。」                   ペテロの第二の手紙3:5 

■ 井戸を掘りましょう:

   「創造の初めからのまま」で何も変っていない、と主張する人々に対して、ペテロは、彼らが故意にか無知からか、見落としている事実を指摘しています。

   ペテロに言わせれば、「天」は、あざける者どもが言うとおり、昔からのままです。しかし、地は「洪水によって滅ぼされ」大きな変化を通過したのです。決して「創造の初めからのまま」ではありません。そして、その洪水は、正に、神の裁きでした。

   あざける者どもは、神の裁きが、ある時、執行されたことを見過ごしているのです。なぜなら、彼らにとって、神が人類の歴史に介入して、裁きを執行すると言う考えは、受け入れられない、それは耐え難いからです。それで、彼らは、多分、故意にその事実を見過ごしにしているのです。

   しかし、ノアの時代に不義をさばかれた神は、また、他の時代の不義をも裁かれるお方です。彼らは、そのことを容認したくないのです。

   フランスのサルトルやカミュなどによって提唱された実存主義では、聖書的な神の存在を否定しません。そのよう神の存在を認めたうえで、人間の尊厳さを保つために、そのような神の助けを求める必要はない、人は、自存自律できる存在だと主張するものです。しかし、人は、創造主である神を否定し、見失った途端に、道徳的に退廃し、無神的な個人生活、社会生活は大きく崩れてゆきました。人は、創造主を離れて自存・自律することはできなかったのです。

   道徳的な神からの離反も、哲学的な神への反抗も、共に、神からの裁きを受けざるを得ない情況を生み出しています。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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