. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第55講
■ 今日の「井戸掘り」

   「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです。」                   ペテロの第二の手紙3:7 

■ 井戸を掘りましょう:

   旧約のノアの時代には、さばきは洪水によって執行されました。終末の時代、今度裁きが行われる時は、その裁きは火による、とペテロは書いています。

   洗礼に関しても、先ず「水のバプテスマ」が施され、そして「火のバプテスマ」が続くわけですが、何かこの順序に関連があるかもしれません。バプテスマ・洗礼は、それを受けるクリスチャンにとっては、救いのしるし、また、証しですが、バプテスマによって処理される罪と言う観点から考えると、水のバプテスマでは、罪の咎めが洗い流されたことを証しし、火のバプテスマによっては、罪の性質の籾殻(もみがら)が火に焼かれます。いずれも、罪を中心にして考えると、それはさばきであると言えます。

   元に戻って、「今の天と地は、、、火に焼かれるために、、、保たれている」のです。神の約束が成就するまでは、天と地が過ぎ去ることはありません。しかし、一旦裁きが行われると、「今の天と地は」大きく変容して「新天新地」が出現します。その中心は、黙示録にあるように「新しいエルサレム」です。その都では、小羊が光となって、夜はなくなります。

   天と地の変容は、不敬虔の者どものさばきと連携しているようです。ヒンズー教や仏教が言うように、人間もその一部だからと言う理由によってではなく、人間は、自然界を管理する責任者として立てられていると言う理由で、人間と自然界は密接な関係にあります。人が裁かれるとき、自然界も変るのです。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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