このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」 ペテロの第二の手紙3:12
■ 井戸を掘りましょう:
この節の冒頭の「このようにして」とは、当然、前の節の「敬虔な聖い生き方」をすることを指しています。「神の日の来るのを待ち望む」姿勢に関することです。「待ち望む」だけでなく、更に、神の日が「来るのを早める」生き方です。それは、積極的に伝道して、ひとりでも多くの人が悔い改めに進むようにすることです。
今の「天と天の万象」、「地とそのいろいろなわざ」は、神の日が来れば、すべて「燃えくずれ」、「焼け溶けて」しまうからです。かって大きな隕石が、地球上に落下し塵を空中に巻き上げ、それによって産み出された暗黒が、地上の植物を枯らし、そのために恐竜のような巨大な生き物が生きられなくなったのだろう、と想像されているような事態が再び、更に大きな規模で起こることが考えられます。
ヨエルは「わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。、、、」と預言していますが、これらの現象は、聖霊が注がれたあのペンテコステの日には見られませんでした。預言者たちは、しばしば、歴史上の異なる時点での出来事を、恰も、同じ時代の出来事であるかのように語ることがありますが、ここも、そのような預言者の特徴を示しているのかもしれません。
ヨハネも、ペテロ同様「世と世の欲は滅び去ります」、それですから「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」と書き送りました。初代のクリスチャンの心には、この天と地とは過ぎ去ってゆき、無くなってしまうもの、それゆえ、信仰者は、それらに固執してはならないことが、明確に刻み込まれていました。彼らは、その後の、来るべき世界に望みをおいたのです。
■ キリスト、ペテロの足を洗う