. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第62講
■ 今日の「井戸掘り」

   「そういう訳で、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」              ペテロの第二の手紙3:14 

■ 井戸を掘りましょう:

   ペテロの時代のクリスチャンたちが、どのような者であり、また、どのような者であることが期待されているかが、この節に記されています。

   先ず、信仰者とは、どのような者か、についてですが、彼らは、「愛されている」者であり、新しい天と新しい地を「待ち望む者」であるとあります。そのようなクリスチャンが、どのような者になるよう期待されているのでしょうか。それは「しみも傷もない者」となることです。そして、そのような者として「平安をもって御前に出られる」者となることです。

   この「しみも傷もない」状態は、御前に出たときに、既にそのような者になっている、或いは、そのような者にされている状態です。ですから「平安をもって」何の恐れもなく、主の臨在の御前に出て行くことができるのです。

   彼らは、自分の義によって「しみも傷もない」状態を達成したのではありません。傷のない小羊であられる方に依り頼んで、その義を受けることによってのみ、そのような者となることが可能です。パウロは、テサロニケ人への手紙の中で「平和の神」こそが、信仰者を「全く聖なるものとしてくださる」お方であり、キリストの来臨のとき、「責められるところのないようにしてくださる」お方であると書いています。

   人は、自分の努力によって、聖なる者となろうとしてきましたが、それはすべて空しい努力でした。もし、人の修業に結実が見られたなら、主イエスが来られて、その尊い、神-人としてのいのちを十字架で、世に与える必要はありませんでしたでしょう。それ以外に方法がないので、父なる神は、最愛の御子を犠牲にすることを可とされたのでした。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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