. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第63講
■ 今日の「井戸掘り」

   「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。」              ペテロの第二の手紙3:15 

■ 井戸を掘りましょう:

   主が、忍んで待っていてくださること自体が救いであると、ペテロは書きます。そして、それは自分だけの意見・考えではなく、パウロも、そのように書いていることを指摘します。

   「主の忍耐」は、主の愛の表れです。主は、愛するゆえに忍んでくださいます。パウロは、あの良く知られている愛の章の中で「愛は、すべてを耐え忍びます」と書きました。耐え忍ぶ時に示される愛ほど、強い愛はありません。耐え忍ぶのには、普通の愛ではなく、強烈な愛が必要です。

   主の忍耐が救いであると言うとき、その救いは、通常、救いについて語るときの、罪の赦しとか義認といったような内容ではないでしょう。「救い」というのは、大変広い概念で、多くの内容を包含しています。そのことは旧約聖書を読めば判ります。敵襲からの御守りも、主の救いですし、病からの恢復も主の救いとされています。その他、飢饉が止められること、嵐が鎮められることなどなど、人生の万端における主の干渉で、人間の助けとなったことどもはことごとく「主の救い」、「主からの救い」と位置づけられています。

   旧約聖書で、主は救いたもうお方であることが強調され、新約聖書においては、その主の救いの倫理性が強調されてくるのです。旧約時代の主の救いは、主は救い得たもうお方であることを教えるオブジェクト・レッスンであり、主の救いの最終的な目的は、その倫理的な面にあるのではないでしょうか。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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