. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第67講
■ 今日の「井戸掘り」

   「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」           ペテロの第二の手紙3:18 

■ 井戸を掘りましょう:

   パウロの手紙と同様に、ペテロの手紙の締め括りのことばは、キリストに対する頌栄です。「このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」キリストをナザレのイエスとして、単なる人間的な存在としてしか見ない近代のリベラリズムの神学は、明らかに、初代教会のクリスチャンたちのキリスト観とは異なったキリスト観を抱いています。初代のキリスト者は、確かにアブラハムの子と呼ばれるに相応しい信仰の実質を保持していましたが、リベラリズムを擁護する神学者たちは、アブラハムの子と呼ばれるには相応しくありません。アブラハム、また、初代教会とは異なった信仰の理解だからです。<

   歴史のキリスト、信仰のキリストとを分けて、ナザレのイエスが、初代教会の中で神格化されるに至ったと言うリベラリズムのキリスト理解は、受け入れる訳にはいきません。聖書が明らかに教えるキリスト像は、神の御子が、肉体を取って人となられた、というものだからです。キリストの神性は、初代教会の確信するところでした。ローマ時代に迫害の理由となった「イエスは主である」という主張こそ、初代教会にとっての生命線で、自分のいのちを賭してでも守るべき真理だったのです。神であられるキリスト、神と同じご性質を帯び、永遠であられるお方、その方に「今も永遠の日に至るまでも」「栄光がありますように!」これこそが、初代教会の心から願ったことでした。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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