. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの第二の手紙」 を読む : 第66講
■ 今日の「井戸掘り」

   「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」           ペテロの第二の手紙3:18 

■ 井戸を掘りましょう:

   「信仰には徳を、徳には知識を、、、」との勧告で始まったこのペテロの第二の手紙の締め括りは「成長しなさい」です。年老いたペテロの心の重荷は、クリスチャンたちが信仰に成長することだったのです。しかし、信仰に成長しなさい、とは書かないで「キリストの恵みと知識において成長しなさい」と書いています。信仰において成長するための必須条件がここにあるからでしょう。

   まず「恵みにおける成長」です。主イエスの恵みに生きること、その恵みを更に深く理解すること、恵みを人々に伝えること、「恵みにおいて成長」すべき分野は多岐にわたっています。また、「主イエスの知識において」成長するように勧められていますが、1章2節には「主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」と挨拶を書き送ったことを想起してください。恵みが豊かにされるためには、すなわち、恵みにおいて成長するためには、「主イエスを知ること」において成長することが必要です。

   私たちはどのくらい主イエスを知っていますでしょうか。信仰によって、イエス・キリストを「救い主」としては受け入れていますでしょう。しかし、このお方を「主」として受け入れていないことがあります。「救い主」として受けいれるのと、「主」として受け入れるのとでは、その信仰の歩みが全く異なるのです。

   イエス・キリストを「救い主」として受け入れると言うことは、ある意味で、自分のためです。罪の赦し、子として頂くこと、など、信仰の恵みが、そのことを通して自分のものとなります。しかし、キリストを「主」として受け入れることは、自分のためと言うよりは、主のためであって、自分の生涯を主の御用のために、みこころのままに、、、と差し出すことです。私たちは、キリストを「主」なるお方として知ることにおいて、どのくらい成長していますでしょうか。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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