徳永の平家物語 読み直し」その四  全体索引 

少年時代、幾度も繰り返し読んだ格調高き名文の数々あるこの物語。わけても祇園精舎の冒頭は深い哲学が秘められて大きな影響を日本人に与え続けている。戦前戦後の世界、国内の政治、企業を振り返って見ても、この祇園精舎に語られている悲哀を如実に示すものだ。人間も国家も政治家も企業も奢ってはいけないのである。だが、何と申しても原文の、えもいわれぬリズムと日本語が楽しい。思うままに語って参りたい。  平成22101日  徳永圀典
平成23年1月

元旦

巻・第五から第六 抄訳

頼朝挙兵 入道相国の死

平家一族の別荘は摂津国福原、現神戸市にあった。ここに清盛は遷都するという前代未聞の事件を起していた。その新都では様々な怪異が起こり人々は不吉な前兆と慄いていた。
 2日

清盛自身も、寝室を巨大な顔が覗き込んでいたとか、庭に無数の髑髏(どくろ)(ひし)めき合い、それが一つとなって(にら)みつけるといった不気味な経験をした。

 3日 文覚

文覚は元々武士であった。出家して熊野の那智の滝での荒行の後、諸国で修行、神護寺再興の勧進に当たり、その傍若無人な行動で伊豆流罪となったという怪僧であった。

 4日 文覚

その伊豆で頼朝に平家打倒の決意をさせたのが文覚である。文覚は、後白河院の平家打倒の院宣を携行していたのである。

 5日

頼朝挙兵の報に接した清盛は、激怒し重盛の嫡子・維盛や、末弟の忠度ら三万余騎の大軍を差し向けた。途中の道々で軍勢は増え続け7万余騎となり駿河国に到着した。源氏は20万余騎で黄瀬川(きせがわ)に到着、両軍は富士川を隔てて陣を取ったのである。

 6日 富士川の戦い

処が、愈々合戦となる前夜、噂に聞く坂東武者の剛胆さに恐れをなした平家軍は、水鳥の飛び立つ羽音を敵の襲来と思い込み逃亡を始め、源氏は戦うことなく富士川の戦いに勝利した。

 7日 家滅亡の予感

福原遷都を不吉とした清盛は、突然、都を京に戻す。そして、南都の僧の叛乱に激怒して五男の重衡の軍勢を送り、興福寺、東大寺、さらに大仏殿までも焼き払う始末であった。大仏の首も焼け落ち、この惨状は平家滅亡を確実に予感させることとなった。

 8日 打倒平家の機運拡大

この事件の翌年から平家の運命は一挙に暗転するのであった。高倉院が崩御したのである。その頃、木曾でも源氏の一人が挙兵した、木曾義仲である。

 9日 清盛死ぬ

諸国でも、反平家の狼煙(のろし)が次々と上がり、清盛の三男・宗盛が追討することとなったが、清盛が突然、熱病で倒れた。数日清盛は苦しんだ後、「頼朝の首を()ねて我が墓前に供えよ」と遺言を残して死ぬ。

10日

長男・重盛は既になく、更に清盛を失った平家に嘗ってのような威光は最早や無かった。源氏を中心とする反平家勢力は全国に広がっているのであった。

11日 余談

日本語の素晴らしさ
平家物語の文章の格調の高さ、日本語の素晴らしさよ。
(さんぬる) 八月十七日、伊豆(いずの)(くにの)流人右兵衛佐頼(るにんひょうえのすけより)(とも)しうと北条四郎時政をつかはして伊豆の目代(もくだい)和泉(いずみの)判官(ほうがん)兼高(かねたか)を、やまきが館で夜うちにうち候ひぬ。(巻第五「早馬」)
巻・第七から第八 抄訳
12日 驕る平家の都落ち 木曽義仲の活躍

挙兵した源氏の勢力は、着実に平家を追い詰めていた。中でも信濃の国から越前の国まで支配下に治めていた木曽義仲である。越前国は火打が城では敗退したが倶梨伽羅(くりから)ヶ谷(越中・加賀国境)では奇襲に成功、平家勢力7万余騎を谷な追い落とす大勝利を収めた。

13日 義仲の追撃

加賀の国篠原では、義仲の追撃にあった武蔵野(むさしのの)(こく)斉藤(さいとう)別当(べっとう)(さね)(もり)が70余歳の年齢を隠すために髪を黒く染めて勇猛果敢に戦った。討ち取られ、義仲がその首を洗わせると白髪が現われ義仲らはみな涙を流した。

14日 平忠度

京の都の北の守りでもある比叡山を義仲に奪われた平家は、安徳天皇を奉じて都落ちを決意した。みな別れを惜しむ中、平忠度は歌の師である藤原俊成邸に引き返して和歌を託した。

15日

その歌一首は、読み人知らずとして「千載集(せんざいしゅう)」に収められている。さざ波や志賀(しが)の都はあれにしを昔ながらの山ぎくらかな」である。

16日

忠度は、(たいらの)相国(そうこく)・清盛の第六の舎弟、一ノ谷の西の手の大将軍。文武両道、ことに歌道の達人、若い時は熊野の山中に育ち、大刀の早業『六韜(りくとう)』の(おう)()を貯へた名将。巻第九、「忠度最後」にある。一ノ谷の戦いで忠度は岡部六弥太忠澄に首を討ち取られた。

17日 立派な武将平忠度

忠澄が忠度の(えびら)に結び付けられた文を取ってみたところ、この歌が書き付けられていたのである。「行き暮れて()の下蔭を宿とせば花や今宵のあるじならまし」。立派な武将であり感涙がほとばしる。

18日 原文を引用する

また、岐蘇(きそ)の義仲、平安城に攻め人らむとせし時、平家の一族、安徳帝を奉じて西海に落ち行かれしに、薩摩守(みち)より引き返して、五条三位俊成卿の許におはして、一門の運命けふはや尽き果て候、撰集の御沙汰有るペきよし承って候ひしはどに、一首なりとも御恩を蒙らふとて、百余首書きあつめられたる巻物をよろひの引きあせより取り出だして奉らる。

19日

俊成卿、かくるわすれがたみをたまはり候上(そうろううえ)は、ゆめゆめ疎略(そりゃく)を存ずまじう候、さてもただ今の御わたりこそ、(なさけ)も深うあはれもことに(すぐ)れてこそ候へ、と()へは、薩摩守、かばねを野山にさらさばらせ、浮名を西海の波に流さば流せ、今は思ひ置く事なしとて、馬に打ちのり胃の緒をしめて落ちられし。その後、『千載集』に、故郷の花といふ題にてよまれたりけるを、読人しらずとて入れられたり。
「さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな

20日 福原落ち

都落ちした平家一門は、かっての都・福原に集結、そして翌日には火をかけて船で更に西へと落ちてゆくのである。(福原落ち)

21日

(なみ)の上に白き鳥のむれいるを見給(みたま)ひては、「かれならん、在原(ありはら)のなにがしの、隅田川にてこと問ひけん、名もむつましき都鳥にや」と哀れなり」(巻第七福原落)

22日 後白河院は老獪

平家都落ちの際に姿をくらましていた後白河院が帰京。そして平家追討の院宣を下したのであった。やはり後白河院は老獪である。

23日 四国の屋島に漂着

平家一門は、九州・大宰府に到着するが、平家追討の命を受けた豊後守の軍勢に追われて流浪の身となってしまった。暗澹たる旅路に重盛の子・清経が入水(じゅすい)。残る一門は四国の屋島に漂着した。哀れ。

24日

義仲であるが、入洛したものの、都人には粗野な田舎者と映り不評であった。これが義仲の命取りとなって行った。

25日

一方、平家は瀬戸内海を掌握し、義仲の追討軍に勝利した。都では義仲軍の横暴に耐えかねた後白河院が遂に義仲追討を命じたがこれは失敗した。

26日-
27日
巻・第九から第十 抄訳

源氏の内乱

平家追討に出発しようとしていた義仲に対して、甥・源頼朝は弟の範頼・義経を追討に差し向けた。源氏内の指導権争いである。源氏の両軍は宇治川で激突した。義仲は敗れ、軍勢もみるみるその数を減らす。女武者・巴御前とも別れ、(めの)母子(とご)の今井兼平と共に主従僅か2騎となる。義仲は粟津の松原(現在の大津市)に入った所を名も無き郎党に射られて落命した。義仲の短い天下は終わったのであった。

28日-
31日

源氏同士の戦いの行われていた頃、平家は清盛の甥・教経の活躍で瀬戸内各所に点在する敵を破り反攻を続けていたのである。そして京に戻るべく福原まで進軍し遂に範頼・義経の主力軍と一の谷で対峙することとなった。一の谷は海山に隔てられた難攻不落の地である。義経軍は夜襲をかけ勝機に乗じて(ひよどり)(ごえ)の背後に迂回して一気に攻め込んだ。不意をつかれた平家軍は大混乱となり四国へ逃亡するしかなかったのである。

一の谷の麓は須磨の海である。捕虜となった重衡、自害して果てた歌人・忠度、熊谷(くまがい)次郎(じろう)(なお)(ざね)に討たれた敦盛、父・知盛の犠牲となった知章。夫々が哀れを誘う最後を遂げている。安徳天皇一行は血で染まった海に船を漕ぎ出し屋島へと向う。

京の都では一の谷で討ち取られた平家の人々の首が曝されていた。朝廷は捕虜の重衡の身柄と三種の神器の交換を提案する。だが平家方は断腸の思いで拒否する。やがて重衡は鎌倉に預けられたが、その風流な人柄に頼朝は手厚くもてなしたのであった。一方、都落ちの際に京に残った維盛の妻子は、夫の身を案じていた。維盛も妻子への思いは捨て難く屋島から高野山に逃れて出家する。だが、妻子への雑念を断ち切る為に入水して最後を遂げる。