日本、あれやこれや その57
平成21年1月
武士道とは 2
1日 | 武士の情け
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「武士の情け」、即ち、武士の優しさは私達に内在する、ある種の高潔なものに訴える響きがある。サムライの慈悲が、盲目的衝動的なものではなく、「正義」に対する適切な配慮を持つことの証左であろう。 |
サムライの慈悲は、単なる、ある心の状態ではなく、生かすも殺すもできる力が背後にあることをを忘れてはならないのではないか。 |
2日 | 他者への憐れみの心 |
か弱い者、劣った者、敗れた者、等への「仁」は特にサムライには似つかわしく思える。 |
源平合戦の須磨の浦の激戦で熊谷直実のサムライの「仁」を想起してみよう。 |
3日 | 須磨の浦の戦い |
1184年、源平の須磨の激戦、熊谷直実は一人の敵に追いついた。一騎打ちを挑み、相手をその逞しい腕でしっかりと捕らえた。戦いの儀礼として、弱い者が強い側の者と、同等の位か能力を持つかでなけれぱ一滴の血を流すことは許されない。 |
直実は、相手の名を知ろうとするが拒まれる。兜を剥ぎ取った。そこには、色白のまだ髯も揃わぬ少年の容顔、驚いた直実は手を緩めた。そして父親が諭すように、この場を立ち去れよと告げる。 |
4日 | あな美しの若殿や |
「あな美しの若殿や、御母の許へ落ちさせ給え、熊谷の刀は和殿の血に染むべきものならず、敵に見咎められぬ間にとくとく逃げのび給え」。 |
だが、この若武者は立ち去ることを拒む。それどころか、熊谷に、二人の名誉の為に、この場で己が首を斬れと求める。この古強者の白髪の頭上にも氷の刃がきらめいた。 |
5日 | 疾く疾く頸をとれ |
だが、熊谷の屈強な心はひるんだ。脳裏に彼の息子の姿が浮んだからだ。熊谷の強い腕がわなわなと震えた。そして、今一度、このいたいけな犠牲に生命を粗末にせず、逃れるように求める。 |
だか、若武者は「だだ疾く疾く頸をとれ」というばかりである。やがて味方の軍兵が雲霞のように押し寄せる足音が聞こえてくる。 |
6日 | 今はよも遁し参らじ |
熊谷は大音声に叫んだ。「今はよも遁し参らじ、名もなき人の手に亡われ給わんより、同じうは直実が手にかけ奉りて後の御孝養をも仕らん。 |
一念弥陀仏、即滅無量罪」。一瞬、白刃が空に舞い、振り落とされた時には若武者の血で赤く染まっていた。 |
7日 | 優しさ、憐憫、慈愛 |
戦いが終り、熊谷は凱旋した。だが、彼はもはや、褒賞や功名に心を傾けることは消えていた。熊谷は武勲に輝く軍歴を捨て去り、法体となり僧衣を身にまとった。そして余生を念仏行脚に捧げ西方浄土を乞い願い続けたのである。 |
この物語は、優しさ、憐憫、慈愛がサムライの最も血生臭い武勇の物語の特質であることを示している。 |
8日 | 琵琶歌 |
「窮鳥懐に入るときは猟師もこれを撃たず」、キリスト教的赤十字運動が日本に容易く根付いたものが昔からあったのである。 |
サムライの勇猛と厳しい鍛錬と共にサムライも音曲をたしなむ。琵琶歌のように物悲しく、優しい旋律である。修羅場から思いを遠ざける音曲なのである。 |
9日 | 武士の詩歌 |
「枕に通うとも咎なきものは花の香り、遠寺の鐘、夜の虫の音はことに哀れなり」。 |
「憎くとも宥すべきは花の嵐、月の雲、うちつけに争う人はゆるすのみかは」。 |
10日 | 武士のたしなみ |
合戦の場へ行く武士が、立ち止まり、腰から矢立を取り出して歌を詠むことは稀ではなかった。 |
生命尽きた武士の兜や胸当てが引き剥がされると、その中からよく辞世の句の書付が見出された。 |
11日 | 本当の「礼」とは |
外国人旅行者は誰でも、日本人の「礼儀正しさ」と「品性の良さ」に気づいている。品性の良さを損ないたくないという思いでの「礼」であれば、それは浅薄な徳行である。 |
本当の「礼」とは、「他人の人格を尊重する思い」を目に見える形で表現するものなのではあるまいか。 |
12日 | サムライ言葉 |
礼は、相手の人格尊重の最高の姿として、敬虔な気持ちを以てするものではあるまいか。 |
サムライ言葉がある、「・・御座候や」、「・・でござる」、「黙らっしゃい」、「ござりまする」等々、実に、謙虚な中に相手への尊敬が見られるではないか。 |
13日 | 礼法 |
礼法の最も有名な流派の祖述家である小笠原清務は言う、 |
それは、言い換えれは、 正しい作法に基づいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分ない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が身体中に行き渡るようにすることを意味する。 |
14日 |
礼の必要条件 |
礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによって物事を行うので、いつも優美な感受性として表れる。 |
礼の必要条件は、泣いている人ともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。 |
15日 | 武士に二言なし |
伊達政宗は 「度を越えた礼は、もはやまやかしである」と言った。 真実性と誠意が無ければ礼は道化芝居の類いである。 |
「心だにまことの道にかなひなば祈らずとても神やまもらむ」と歌った人はハムレットのポロニウスを越えている。 |
16日 | サムライ精神とはは「誠」 |
孔子は「中庸」の中で、誠をあがめ、超越的な力をそれに与えて、ほとんど神と同格であるとした。 即ち「誠なる者は物の終始なり。誠ならざれば物なし」と。 |
要するに、至誠は広々として深厚であり、然も遥かに未来にわたり限りがない性質がある。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、自ら目的を達成する力があると。 |
17日 | 誠の文字は |
誠の文字は「言」と「成」から出来ている。武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、「より高い誠の水準」を求められていると考えていた。 |
「武士の一言」は断言したことが真実であることを十二分に保証するものなのであった。故に、武士の言葉は重みがあり、約束は概ね証文無しで決められ且つ実行された。 |
18日 | 武士の証文 |
前述よりして、武士の証文は武士の体面にかかわるものとして考えられたのである。 「二言」つまり二枚舌のために死を以て償った武士の壮絶な物語が多く語られている。 |
キリスト教徒の「誓うことなかれ」は明白な教えを絶え間なく破ったことを示している。 だが、武士は「誠」に対して非常に高い敬意を払ったのである。「誓い」をすることは自身の名誉を甚だしく傷つけることになるのである。 |
19日 | 武士道と商人道の相違 |
まず、武士は「銭勘定」こどと「算盤」は徹底して忌み嫌っていた。 |
商業に関しては、卑しめられた観念があった。 徳川家康などは「商は詐なり」とまで言った。 |
20日 | 士族商法 |
清廉潔白なサムライ達は、手練手管を弄する下層階級の競争相手と伍して抜け目無く商売をやってゆく力が全く欠落していた。 |
富の名誉が名誉の道でないことをサムライは知っていた。 正直さがサムライの徳目の中で最高の地位にあったからである。 |
21日 | 武士の名誉 |
幼児の頃から教え込まれるサムライの特色は名誉である。その観念は「名」、「面目」、「外聞」などの言葉であろうか。 |
「廉恥心」という感性も幼少の頃の教育に於いても大切にされていた。「人に笑われるな」、「体面を汚すな」、「恥ずかしくはないのか」と少年の過ちを正した。 |
22日 | 廉恥心 |
廉恥心は、人類の道徳意識に出発点だと私は思うのである。キリスト教国でいう「禁断の木の実」を口にした為に、人間が蒙らねば゜ならなかつた最初にして最後の罰は、 |
産みの苦しみではなく、イバラやトゲの痛さでもなく、「羞恥」の感覚の目覚めであった。 現代には全く消失してしまつた感覚ではないか。 |
23日 | 不名誉 |
新井白石が少年時代に受けた僅かの辱めによってさえ、その人格を傷つけられるのを拒否した。 |
白石は「不名誉は樹の切り傷の如く、時はこれを消さず、却ってそれを大ならしむのみ」だからであった。 |
24日 | 恥 |
「恥は、すべての徳、立派な行い、また勝れた道徳の土壌である」。 |
「恥辱への恐怖」は非常に大きな存在であった。 |
25日 | 忍耐心 |
「ならぬ堪忍、するが堪忍」という格言、徳川家康の「人の一生は重荷を負うて行くが如し、急ぐべからず。堪忍は無事長久の基・・・。己を責めて人を責めるべからず」。 |
織田信長「啼かざれば、殺してしまえ郭公」。 豊臣秀吉「啼かざれば啼かしてみよう恰好」。 徳川家康「啼かざれば啼くまで待とう郭公」。 |
26日 | 忍耐の極致 |
江戸の儒者・小川立所 「人の誣うるに逆わず、己が信ならざるを思え」。 |
熊沢蕃山、 「人は咎むとも咎めじ、人は怒るとも怒らじ、怒りと欲を棄ててこそ常に心は楽しめ」。 |
27日 | 西郷南州遺訓 |
「恥も座するを恥ずる」と西郷は常に念頭に置いた。 |
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽て人を咎めず、が誠の足らざるを尋ぬべし」。 |
28日 | 侮辱と名誉 |
およそ侮辱に対して人は直ちに憤慨し、死を以て報いた。 |
名誉は最高の善として称賛された。 |
29日 | 名声 |
恥となることを避け、名を勝ち取るためにサムライの息子は、いかなる貧困をも甘受し、肉体的、精神的苦痛の最も厳しい試練にも耐えたのである。 |
もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていた。 |
30日 | 義と仁と名誉 |
武士道の光輝く最高の支柱は「義」、人の上に立つための「仁」、試練に耐えるための「名誉」。 |
強靭な精神力を生んだ武士道。武士は何を学び、どう己を磨いたか。 |
31日 | 日本の活動精神 |
武士道は日本の活動精神、推進力であった。それは過去も現在もそうである。 |
吉田松陰の刑死寸前の辞世の歌の通りである。無意識的な、あらがうことのできない力として日本国民を動かしてきたものである。 |