徳永の平家物語 読み直し」その二  全体索引 

少年時代、幾度も繰り返し読んだ格調高き名文の数々あるこの物語。わけても祇園精舎の冒頭は深い哲学が秘められて大きな影響を日本人に与え続けている。戦前戦後の世界、国内の政治、企業を振り返って見ても、この祇園精舎に語られている悲哀を如実に示すものだ。人間も国家も政治家も企業も奢ってはいけないのである。だが、何と申しても原文の、えもいわれぬリズムと日本語が楽しい。思うままに語って参りたい。  平成22101日  徳永圀典
平成22年11月1日

 1日

(とも)(もり)

平清盛と時子の子。知盛は常に洞察力に優れて冷静で重盛亡き後を支えていたのは知盛であった。平家物語を象徴する人物。平家最後の武将として、壇の浦での散り際がいい、「運命尽きぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ」と

兄に代って全軍に激を飛ばしている。源氏との戦況を聴く女房達には「珍しい東男(あづまおとこ)をご覧になれましょう」とカンラカンラと笑う、見事に(きも)の据わった武将であった。
 2日

一族が滅びるのを見届けた後の最後の言葉もいい。名台詞(めいせりふ)であった、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」である。知盛が見たものの中には、嫡子の知章の討死もあったろう。

一の谷の合戦、知盛の身代わりとなった我が子、そして(めの)母子(とご)の伊賀家長と「約束は(たが)まじきか」と手に手を取り従容(しょうよう)として入水(じゅすい)した。
 3日 源頼朝 本格的な武家政権の創始者、鎌倉幕府を開設。頼朝は流罪先の伊豆で以仁王(もちひとおう)から令旨(りょうじ)を受け平家打倒に踏み出す。 富士川の合戦勝利後も鎌倉にとどまり、弟の範頼や義経に指令を出すだけであった。
 4日

鎌倉にいながら遠く離れた朝廷と折衝しながら勢力を巧みに拡大した。壇の浦の戦いの後、異母弟の義経を

油断ならぬ男と判断して追討を決意した。清盛や義経よりも遥かに政治的な人物である。
 5日

源義経

判官(はんがん)贔屓(ひいき)は人後に落ちない私である。詳しく私が説明する必要はあるまい。義経の超人的な活躍は虚構ではない。奇抜で異質な発想法を持っていたと思われる。

平家物語の義経像は、天才的な戦略家、油断のならない不気味な存在と兄・頼朝周辺には写ったのであろう。ただ、義経が悲劇の貴公子として美化されるのは義経記成立後で平家物語では一武将である。
 6日

木曾義仲

平家物語は滅びの美学の物語、潔い死を遂げた平知盛、それに負けない木曽義仲の散り際もいい。一世一代の遁走中、

()(ごろ)はなんともおぼえぬ(よろい)が今日は重うなったるぞや」と義仲の乳母子の今井兼平に訴える台詞は哀れを催す。
 7日

また兼平が義仲の最後を看取(みと)った後、「日本一の(ごう)の者の自害する手本」と

太刀の切っ先を口に含み馬から真っ逆様に落ちる。兼平も壮絶な最後であった。
 8日

義仲は素朴な田舎育ちであり都の人とは会話が通じず牛車(ぎっしゃ)に乗り慣れないから牛飼(うしかい)(わらべ)にまで馬鹿にされる始

末で都会人に嫌悪を覚えた。だが義仲は単なる山育ちではない。幼児にき京都にも出ていた、木曾は西国と東国の接点であり情報もあった筈。
 9日 (ともえ)御前(ごぜん)

実在がどうか不明らしい。美しい上に男の武士を凌駕かる戦いぶりが魅力。木曽最後で登場する。最後の戦いの場面、巴御前に戦線からの離脱を求めるが、離れ

ようとしない、そして「最後の(いくさ)して見せ奉らん」と30騎ほどの敵に割って入り敵の大将を斬り殺して東国へと落ちて行くのである。

真実の歴史背景 その一
真実の歴史背景
 その一
10日 平家の登場

将門(まさかど)追討に功績のあった貞盛以後、平家は伊勢国を本拠としたが京にあっては、公的には諸衛官人(しょえいかんじん)検非違使尉(けびいしのじょう)などを勤め、私的には有力貴族の家人(けにん)となった。

貞盛は京の防衛、院関係の荘園防衛に当たるなど、傭兵隊長を勤めることにより従五位上に叙せられ受領(ずりょう)に任ぜられた。これを近臣受領という。同じ状況にあった源氏に対し、平正盛(忠盛の父)は源義親を追討し白河院の殊寵(しゅちょう)を得て鳥羽天皇にも近仕(きんじ)した。
11日 昇殿

忠盛はその妻、藤原宗兼の娘・宗子(後の池の禅尼)を仲介として鳥羽院の寵臣藤原家成に結びつき、

院の執事別当となり富と財力にものを言わせて天承2年、勅願の得長寿院を造進して内の昇殿を許された。
12日 富裕な受領の一人

然し、正盛の時代から、華美な振舞いの為にしばしば貴族達の反発をかっている。

妻・宗子が美福門院の仲介により崇徳院の長子・重仁親王の乳母となり忠盛はその縁で崇徳歌壇にも属し、当代きっての富裕な受領の一人であった。
13日 信西

後白河院の乳母であった紀伊二位の夫信西(しんぜい)は、鳥羽の皇子近衛

の亡き後、鳥羽院の后・美福門院を説得して後白河天皇を即位させた。
14日 源氏を追い落とし

やがて起きた保元の乱に、父忠盛との縁で清盛は美福門院の要請により後白河側

につき、平治の乱にもこの信西に従って源氏を追い落とした。
15日 清盛の巧みさ

乱後、後白河と二条の父子が対立するが、清盛は巧みに両人の間を行き来し難局を乗りきった。二条天皇の後、後白河院は清盛と計って六条天皇を退けたものの、平家ゆかりの高倉天皇が

即位、平家の栄華に驕りが目につき始めた為に平家に対して反感を持ち始める。然し清盛が福原に退いたので世は後白河院の親政となり成親ら院近臣の台頭を見ることとなった。
16日

安元2年、後白河院の五十の賀を祝うが、建春門院の死を契機に院と平家との離反が顕著になる。成親ら院側近の謀反発覚により成親

の娘を北の方としていた重盛は立場が苦しくなるが、清盛は寧ろ、これを機に院に対して巻き返しに出た。
17日

当時、加賀では院の北面の武士が荘園をめぐり在地寺院と衝突、これが山門事件に発展した。当局はその対応に手間取る。この年、京に大火があり内裏にまで及ぶ。

平家物語では、このような事情から、これを世に、日吉山王の怒りによるものと噂したとし当局の対応を批判している。
18日

平家物語各巻

巻・第一から第二 抄訳

平家一門の栄達、忠盛から清盛へ

諸行無常から始まる、祇園精舎である。

仏教思想の色濃い序章、栄枯盛衰は世の習いと告げて物語りは始まる。
19日 闇討ち失敗

先ず、平家前史の描写がある。平清盛の父・忠盛は鳥羽院に重用され内裏への昇殿が許される。

これを妬んだ殿上人たちは忠盛の闇討ちを計画、だが忠盛の機転で闇討ちは失敗する。
20日 一気に太政大臣

物語は清盛の代に移り、保元・平治の乱で勲功を重ね

た清盛は一気に太政大臣にまで昇進する。
21日 清盛の横暴

平家一門は栄華を極め、清盛の独善的な手法が強く描かれる。例えば、白拍子・祇王や仏御前を出家に追いやった事件である。

清盛の横暴な姿は恨みを募らせるが、禿()(むろ)(密偵の少年少女)を放つなどして反平家の動きを封じ込めようとする。
22日 後白河院の復権

後白河院と二条天皇との不仲、その最中に高倉天皇が即位。その母・建春門院は平時信の娘であり清盛の妻時子の妹。

これらにより後白河院の復権が成功、清盛の躍進が実現した。

23日 平家悪行の第一

清盛の孫・(すけ)(もり)が乱暴を受けた報復として、摂政・

藤原基房一行に狼藉を働く事件が発生。これは平家悪行の第一である。
24日 後白河院の反撃

平家の栄華の陰で平家打倒運動が起きた。後白河院の近習僧・俊寛が鹿ケ谷(ししがたに)

の別荘で、時には後白河院も迎えて近臣の西光、藤原成親らが平家打倒計画を練っていた。
25日

明雲は、清盛の太政大臣就任直後、第五十五代天台座主に就き、清盛とは強く結ばれていた。

荘園整理を計る院と、これを拒む山門とが対立し、院は清盛と明雲との切り離しを図っていた。
26日

延暦寺内部では上層執行部の別当、学生(学侶)らと彼らに仕えて雑務を行う堂衆との間に亀裂を生じ遂

に学侶らが院に奉状を奉って堂衆を討とうとし清盛も学侶を助けた。
27日

この鹿ケ谷の謀議は未然に発覚し成親は備前に、

息子の成経、康頼、俊寛は鬼界(きかい)ヶ島に流される。
28日 余談 京の鴨川以東は後白河院と平家の栄華の地であった。同盟関係の後白河と清盛は信頼から不信そして憎悪へと転じて行った。この時代の政治の中心は現在の東山区であった。後白河院は広大な法住寺殿に院御所を構え院政をしいた。 現在の蓮華(れんげ)王院(おういん)三十三間堂がそれである。平家の拠点は六波羅である。後白河の法住寺殿の北にあり清盛は泉殿を中心としていた。
29日 六波羅 平家の拠点である。この地名は、悪疫退散のために念仏を唱えて市中を回った空也上人が開創した寺院、 現在の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)に由来している。
30日 義仲 清盛滅後、義仲は後白河と反目、法住寺殿を焼き討ち、平家の邸宅も焼けてしまっている。 当時を偲べるのは蓮華王院三十三間堂のみである。