徳永圀典の「日本歴史」 11月 摂関政治
平成18年11月
1日 | 律令国家 平安京と摂関政治 |
八世紀中頃から貴族同士の勢力争いが激化してきた。政治に大きい力を持つ道鏡のような僧侶も出現した。国政の混乱に対し桓武天皇は都を移すことで政治の刷新を決意。寺院等の古い勢力が根を張る奈良の地を離れ、しがらみを断ち切った改革の実現を目指した。 | 新しい都は延暦13年、794年、交通の便利な現在の京都の地に造られた。(平安京)明治維新後、東京に遷都するまで約1000年の長期にわたり存続した。平安京への遷都から鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間を平安時代と呼ぶ。 |
2日 | 律令制の拡大 | 桓武天皇は強い指導力を示し貴族を抑え積極的に政治改革を進めた。班田収受の在り方を現実に合わせ、それを実施する国司や郡司を厳しく監視して不正を取り締まった。 |
農民に対しては兵役を負わせることを止め負担を軽くし、代わりに郡司の子弟から屈強な者を撰び健児と呼ばれる兵士に採用し、国府の守りなどに当たらせた。 |
3日 | 坂上田村麻呂 |
九州南部や東北地方などの辺境へも次第に律令の仕組みを浸透させた。特に東北地方に住む蝦夷の人々の反乱に対しては坂上田村麻呂を征夷大将軍として朝廷の軍勢を送り鎮定した。律令国家の領域の拡大である。坂上田村麻呂は帰化人の流れを汲む氏族の出で、武勇が特に勝れ人を指揮する能力は目覚ましいものであった。 |
田村麻呂は蝦夷の反乱を治めた時、その首謀者アルティの助命を朝廷に願い出てたが許可はされなかった。だが、征夷大将軍の地位は、やがて台頭する武家の頭を示すものとなり歴史上重い意味をもつことになった。 |
4日 | 摂関せっかん政治 |
都が平安京に移り朝廷の仕組みが整い天皇の権威が安定してくると、天皇は直接に政治の場で意見を示す必要が少なくなった。 | 一方、藤原氏は、巧みに他の貴族を退けて一族の娘を天皇の后にしてその皇子を天皇に立てることにより勢力を伸ばした。 |
5日 | 藤原氏の系図 |
赤色は摂政関白兼務
|
道長の娘4人は |
6日 | 藤原道長 |
摂関政治が最も盛んだつたのは、道長とその子の頼道の頃で朝廷の高い地位を独り占めにしたり、多くの荘園を所有した。 |
道長は自分の栄華を誇り次ぎの和歌を詠んだ。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」 |
7日 | 地方の政治 |
10世紀になると人口が増加、新田が不足して班田収受が行き詰まると朝廷は地方政治の大転換をした。 |
国司は税の確保を有力農民に任せたので国司と結び大きな勢力を持つ農民も出現した。これは必然的に新しい時代を形成して行くこととなる。律令制度の下での良民と賎民の区別は次第に緩やかなものとなり10世紀初頭に賎民制度は廃止された。 |
8日 | 唐の滅亡 |
907年、中国では300年に亘る東アジアに君臨してきた唐が滅亡した。これは大事件であり周辺諸国に大きな衝撃を与えた。 |
東アジアはこれにより転換期を迎え、朝鮮半島では新羅が分裂、高麗が936年に半島を統一した。日本も中国文明の影響を脱した社会と文化へへと更に進むこととなって行く。 |
9日 | 荘園と公領 |
10世紀以降、地方政治が変質して行くにつれて、各地に有力農民が成長し豪族として勢力を伸ばしていった。彼らは税を免れるために、自分が開墾した土地を荘園(当時の大規模な私有地)として貴族や寺社に寄進し自 |
らはそこの荘官(荘園の管理者)となり支配を強めた。国司の管理下にある公領も、まだ多く残っていたが、国司は地元の豪族を役人に取り立てて税の確保に努めた。荘園が最も盛んに作られたのは12世紀である。 |
10日 | 武士の登場 |
社会が大きく転換するうちに、武士と呼ぶ集団 |
扱いなれた者なども加わっていた。やがて彼らの武芸が注目され、朝廷の武官として宮中の警備ら当たったり、貴族の護衛につくようになる。地方では国司の指揮下に入り盗賊の取り締まり、税を都に運ぶ時の護衛などの働きをした。こうして彼らは武士という身分を確立して行くのである。 |
11日 | 武士の血筋 |
血筋が良く指導者としての能力に勝れた者を棟梁(かしら)とし主従関係を結び武士団を作った。 |
中でも強い力を持つようになつたのは、天皇の子孫の源氏(清和天皇の子孫)、平氏(桓武天皇の子孫)である。 |
12日 | 地方武士の役割 |
10世紀中頃、関東では豪族の平将門が国府を次々と攻め、瀬戸内地方では国司だった藤原純友が海賊を率いて国府や大宰府(九州地方を統括する役所)を襲うなど反乱が相次ぎ発生 |
したが、これらの反乱を治めるのに地方の武士が大きな役割を果たした。 平将門の乱(934年―940年)、 藤原純友の乱(939−941)、 後三年の役(1083−1087)、 平忠常の乱(1028−1031)、 前九年の役(1051−1062)。 |
13日 | 地方武士 |
奥州藤原氏、伊佐城伊達氏、 足利氏、新田氏、畠山氏、 武田氏。 |
木曾氏、比企氏、北条氏、 |
14日 | 天下の三不如意 |
賀茂川の水・双六の賽・山法師 |
これは権力の絶頂期にあった白河上皇が、世の中で思い通りにならない三つの事としてあげたもの。 |
15日 | 源氏の台頭 |
11世紀後半、東北地方で2回にわたり戦乱が起きた。前九年の役と後三年の役である。 |
後三年の役では、源義家は関東の武士を率いてこれを鎮圧した。このことにより源氏は武士の信望を集め大きな勢力を持つようになった。 |
16日 | 院政と藤原氏の後退 |
11世紀半ば過ぎに藤原氏を外戚に持たない後三条天皇が即位して自ら実権を握る。これにより天皇の外戚として権力をふるってきた藤原氏の勢力は抑えられた。 |
後三条天皇は様々な改革に乗り出し、中でも藤原氏の荘園を含む多くの荘園を停止したのは大きい事業であった。 |
17日 | 白河天皇 |
後三条天皇の遺志を受け継いだ白河天皇は皇位を譲った後も上皇として天皇の後ろ盾となり強力な政治を行った。上皇の御所や上皇自身を院と言ったので上皇が主導する政治の在り方を院政という。 |
上皇は天皇に最も近いということもあり権威が高く多くの荘園の寄進により富を蓄積すると共に、天皇の地位を離れることで朝廷の仕来たりに囚われない思い切った政治を行うことが出来た。これにより藤原氏の勢力が衰えた。 |
18日 | 仏教の動き |
奈良時代の仏教は、経典の研究を中心に政治と深く結びついていた。青年僧の最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)は、このような仏教の形に飽き足らず9世紀初頭、遣唐使と共に唐に渡る。 |
帰国後、最澄は比叡山に延暦寺を建てて天台宗を、 |
19日 | 国風文化 |
9世紀に入ると唐は衰え、寛平6年、894年、菅原道真の進言を受けて日本は遣唐使を廃止した。その結果、貴族を中心に宮廷の洗練された文化が興り、唐文化の影響を離れて日本化していった。これを国風文化と呼ぶ。国風文化は藤原氏の摂関時代 |
貴族たちは、美しい自然を庭に取り入れた寝殿造りの邸宅に住み、服装も日本風に変化した。絵画では、日本の山水や人物を題材とした大和絵が描かれ寝殿造りの中の襖や屏風を飾った。 |
20日 | 仮名文字と文学 |
平安時代に入ると仮名文字が普及し特に平仮名は貴族の女性の間で広まった。それに伴い仮名を用いた文学が発達した。和歌では、醍醐天皇の命を受けて紀貫之らにより最初の勅撰集の古今和歌集がまとめられた。 |
古今和歌集の序文で紀貫之は人間の感情がすべての詩歌のみなもとであると述べている。貫之は仮名を使用した最初の日記文学である土佐物語を書いた。 |
21日 | 物語 |
竹取物語は、竹の中から生まれたかぐや姫の話。宮廷に集められた教養豊な侍女たちの間で、優れた女流文学が生み出された。物語には大和絵の挿絵を添えた絵巻物が貴族中心に広く好まれ平安後期の「源氏物語絵巻」などがある。 |
清少納言は鋭い観察力で宮廷生活を綴った随筆、枕草子、宮廷の女官であった紫式部の源氏物語は、桐壺の皇子である光源氏と彼を取り巻く多くの女性たちとの交歓を描いた物語である。細やかな心理描写、個性の書き分けに優れ日本文学の最高傑作といわれる。 |
22日 | 浄土教と仏教文化 |
平安時代中期になると天災や社会の乱れから人々の不安が増して、末法思想(仏教が衰える末法になると世の中が混乱するという考え方)の広まりもあり、浄土教が盛んとなる。 |
浄土教は、阿弥陀仏を信仰し、死後は極楽往生に生れ変ることを願う教えである。源信の「往生要集」はその代表的著作。貴族たちは浄土への憧れを胸に阿弥陀堂を建て、阿弥陀仏の像を安置した。 |
23日 | 平等院鳳凰堂 | 藤原頼道の建てた宇治の平等院鳳凰堂が代表的な例で、堂内は極楽浄土の様子を現している。定朝の作った阿弥陀像が安置され、写実性には欠けるが優美なその姿は、平安後期の仏像制作に大きな影響を与えた。 |
徳永圀典の「日本歴史」 |
24日 | 本地垂迹説 |
都の貴族から次第に阿弥陀信仰は庶民そして地方へと広がった。 |
同時期に、日本の神は仏が仮に姿を変えて現れたとする、本地垂迹説が唱えられ、仏と神を共に敬う神仏習合が盛んとなった。 |
25日 | 院政文化 |
院政時代、貴族の間では優美で繊細な作風の美術 |
12世紀に入ると絵巻物が発達し動物の姿を借りて世相を風刺する鳥獣戯画(民衆の信仰の様子を描いた信貴山縁起絵巻、迫力ある火災の場面の伴大納言絵巻などが現れ生き生きとして動きの満ちた人物・自然が革新的に描かれるようになった。 |
26日 | 最澄と空海 |
平安時代初頭、我が国の宗教歴史の中で大きな仕事をした二人の人物が最澄と空海であり同時期に活躍している。 |
二人は共に日本に於いて仏教の新しい潮流をもたらした。 |
27日 | 最澄 |
天台宗を起こした最澄、766−822、近江(滋賀県)生まれ。先祖は漢の皇帝の子孫で、応神天皇の頃に日本に渡来して帰化したと伝えられる。父は穏やかな性格で学問もあり、村人の手本として尊敬されていた。 | 12歳で近江国の国分寺の僧の下で学び15歳で出家。―20歳で初めて比叡山に登り、人気のない静かな処で、雑念を払って修行した。こうして仏教に打ち込む中に法華経を根本経典としインドに起こり中国で大成された天台宗を学びたいと強く思うようになった。 |
28日 |
延暦23年804年、第14次の遣唐使が派遣される時に強く希望し共に渡航した。この中に空海も参加していた。最澄は本山の天台山で直接天台宗を学びまた様々な仏教の教えを研究し帰国し天台宗を起こした。 |
空海と親交したが後に別れることとなる。最澄の考えは、生ある者はみな差別なく仏(迷いを解いて真理を自分のものにした者)になることが出来るというものであった。死後、仏教の大切な教えを伝えた功績を讃えて伝教大師と呼ばれることとなった。 |
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29日 | 空海 |
真言宗の開祖である。774−835、最澄より8年遅く讃岐国に生まれた。父は佐伯氏、景行天皇の皇子の子孫との言い伝えを持つ。15歳で上京、母方の伯父について中国古典を学び18歳で大学(律令の下で置かれた役人を養成する朝廷の教育機関)に入る。 |
不思議な縁があり、阿波の国や土佐の国で難行苦行の末、神秘な体験をする。それは明るく輝く星が口に入って、光明のまぼろしの中で仏教の奥深さを悟るというものであった。こののち、仏教の探求に打ち込むべく大学をやめ、山林修行に入る。24歳の時、世の様々な教えの中、仏教が最も勝れていると主張する三教指帰を書いた。 |
30日 |
やがて最澄と共に遣唐使に加わり中国に渡り、唐の都長安でインド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ、容易に知ることが出来ない秘密の教えの意味)を学ぶ。帰国の際には、仏教関係最新の書物を数多く持ち帰った。それらの文献の値打ちを最初に認めたのは最澄であった。彼は空海からそれを借り受けて学んだ。然し在来の仏教と対立を深める最澄と、それらとの親交を図った空海は別の道を歩むようになる。 |
空海の教えは、人間が現世での肉体のまま、宇宙の理法と一体化することで仏になれるというものであった。空海はやがて高野山に寺院を作り真言宗を広めた。空海は漢詩文や書道も得意で、その方面でも高く評価されている。空海は死後、仏教の法を広めたことを讃えて弘法大師と呼ばれている。「弘法も筆のあやまり」の諺は空海が書道に勝れていたことが広く知られていたことから生まれた。また「弘法は筆を選ばず」という諺もある。 |