徳永の平家物語 読み直し」その三  全体索引 

少年時代、幾度も繰り返し読んだ格調高き名文の数々あるこの物語。わけても祇園精舎の冒頭は深い哲学が秘められて大きな影響を日本人に与え続けている。戦前戦後の世界、国内の政治、企業を振り返って見ても、この祇園精舎に語られている悲哀を如実に示すものだ。人間も国家も政治家も企業も奢ってはいけないのである。だが、何と申しても原文の、えもいわれぬリズムと日本語が楽しい。思うままに語って参りたい。  平成22101日  徳永圀典
平成22年12月1日

 1日 真実の歴史背景 その五


院側近成親と小松家
後白河院の側近、藤原成親らの鹿ケ谷での平家討伐謀議のあった頃、山門では、山門強訴(ごうそ)の責めを問われて天台座主・明雲大僧正が公請を停止されて伊豆へ流罪と決まった。 山門衆徒はこれを途中で奪還した。明雲は村上源氏、久我大納言顕通の次男で、後白河院の帰依を受けながら予ねてより清盛の信任をも得ており、清盛が病のために出家する際には戒師を務めた。
 2日

明雲は、清盛の太政大臣就任直後、第五十五代天台座主に就き、清盛とは強く結ばれていた。

荘園整理を計る院と、これを拒む山門とが対立し、院は清盛と明雲との切り離しを図っていた。
 3日

延暦寺内部では、上層執行部の別当、学生(学侶)らと、彼らに仕えて雑務を行う堂

衆との間に亀裂を生じ遂に学侶らが院に奉状を奉って堂衆を討とうとし清盛も学侶を助けた。
 4日

院側近では成親らの平家討伐の謀反が発覚し一味が逮捕される。首謀の成親は中御門中納言家成の三男で、母は中納言経忠の娘である。

平忠盛はこの家成に仕えた。清盛の攻略により成親の妹は重盛に嫁ぎ、重盛と官女との間に生まれた維盛は、成親の娘と結婚していた。
 5日

その為、小松家の重盛らは事件を契機に一門内で不利な立場に立たされた。当時の平家一門は、高階基(たかしなもと)(あき)の娘を母とする重盛ら小松家の外、清盛の正妻・時子との間に生まれた宗盛ら本宗家、時忠の堂

上家池の禅尼こと宗子を母として後白河院の近い関係にある頼盛系の四つの系統に分かれていた。生まれつき蒲柳(ほりゅう)の人であった重盛は人並み以上に偏執的な性格と保守思想の持ち主で本宗家の宗盛との仲はしつくりしていなかつた。
 6日

成親は、曾祖父顕親が白河院の側近であり、父家成は鳥羽院の近臣、成親自身も後白河院の近臣であった。平治の乱に藤原信頼側について敗れ死罪になる処を重盛に救われ、平時忠が妹・建春門院腹の皇子皇太子に立てようとした事件に連座した。

また知行(ちぎょう)する尾張に派遣していた目代(もくだい)が美濃国平野荘の神民と乱闘事件を起して、山門宗徒の怒りをかう。いずれも後白河院に救われたが、この鹿ケ谷謀反に再度重盛を煩わせることとなる。然し、流石に重盛も(かば)いきれず成親は流刑地(るけいち)非業(ひごう)の死を遂げた。
 7日 真実の歴史背景 その六

後白河院と平清盛

近衛天皇崩御の際、鳥羽院に擁立されて即位し保元の乱のきっかけをなした後白

河天皇は、在位三年にして、二条天皇に譲位、以後、五代にわたり院政を行った。
 8日

その意味で院と天皇の両人格を統一し、貴族階層を結集した帝王であった。言い換えれば政治的に無権利者である天皇と違って、あらゆる権力を集中的に掌握

した最も政治的な人物で荘園管理にも着手した。「年中行事絵巻」六十巻を制作させたことに見られるように、宮中典礼の規範化をも進めた帝王である。
 9日

平家の棟梁・平清盛は、六条天皇の御代、権大納言となり、関白基実に娘盛子を嫁がせ、以後、内大臣から太政大臣にまで昇る。

盛子は建礼門院徳子の妹で高倉天皇の准母になっておりこの基実との結婚の裏には後白河院の(ちょう)()・建春門院滋子と組む清盛の政略があったことは言うまでも無い。
10日

然し基実が死んだため清盛は期待を基実の長男基通(母は藤原忠隆の娘)に託した。盛子をその養母とし後日、自分の娘寛子と結婚させている。

盛子は夫・基実の死により、異姓の身でありながら、藤原氏の領地を伝領(でんりょう)する。
11日

姉の徳子は後白河院の養女として高倉天皇に入内(じゅだい)する。だが容易に妊娠しない。天皇の周りには何人かの内女房がいたため

清盛は他の女房の腹から皇子の誕生することを警戒しつつ徳子の皇子出生を願ってあらゆる祈祷を行った。
12日 亀裂

特に厳島神社に願をかけたが、かいあって六十日にして徳子は懐妊、無事皇子を生んだ。後白河院と清盛は協力する立場

にあったが、平家の栄華を憎む院側近の成親らの画策、これに院も参画するに及び、二人の仲に亀裂が入ることとなった。
13日 重盛の死

後白河院幽閉

幸いに成親らの謀反は発覚し清盛は一門の統制を重盛に託して福原へ下がる。だが重盛の死を契機にして院は反撃に転じ、もと重盛の知行国で死後維盛が伝えていた越前国を清盛

が無断で収公したり死去した盛子が所有していた摂関家の所領を挽回しようとしていた清盛は、ついに堪りかねて決起し関白基房に39人の官を解いた。そして後白河院をも鳥羽院に幽閉してしまったのである。
14日 巻・第三から第四 抄訳

打倒平家の狼煙(のろし)

高倉天皇の妃・徳子懐妊に清盛は大赦(たいしゃ)を行った。鬼界ヶ島に流されていた成経、康頼は帰洛を赦された。

だが赦免状には俊寛がない。追いすがる俊寛を独り島に置き去りにし船は出でしまう。
15日

そんな俊寛の処へ一人の若者が訪れる。俊寛に仕えた有王であった。俊寛は再会を喜ぶが絶食して死ぬ。

その骨を拾って帰京した有王は出家し俊寛の菩提を弔った。
16日 重盛の死

京都に辻風が襲来した、つむじ風であった。不吉の前兆とさ

れていた、案の定、清盛の嫡子・重盛の病、そしとて死であった。
17日 監禁

唯一、清盛を諫めることの出来た重盛の死は平家を滅亡へと誘導する。重盛という歯止めを失った清

盛は益々暴走を始めた。関白以下多数の貴族を解任、後白河法院さえ鳥羽離宮に監禁してしまった。
18日 譲位

岳父・清盛に心を痛めた高倉天皇は、徳子の子である安徳天皇に譲位した。遂に清盛は(みかど)の祖父となる。

平家は磐石かと思われた。だが、第二の平家打倒は着々と進んでいた、源氏が動き始めていたのである。
19日 以仁王

平家打倒の首謀者は平家全盛の世に不満を抱く(げん)三位(さんみ)頼政(よりまさ)、同調したの

は不遇をかこっていた後白河院の第二皇子の以仁王であった。以仁王は諸国の源氏に平家追討の令旨(りょうじ)を出す。
20日

この情報をいち早く掴んだのが熊野別当湛増(くまののべっとうたんぞう)であった。清盛に注進した平家方の動きを察知した源三位頼

以仁王を三井寺に逃がすが、身の危険を感じた以仁王は南都興福寺への脱出を決意。その途中、宇治平等院で源平合戦の火ぶたが切られたのであった。
21日

以仁王方は宇治橋の橋桁を外し攻め込もうとする平家方に抗戦、激しい戦いの結果、頼政は落命、南都に向かった以仁

王も逃避の途中に平家方の矢を受けて落馬し首を取られてしまった。源平の戦いの火ぶたが切られたのである。
22日

真実の歴史背景 その四

不遇の以仁王(もちひとおう)

以仁王は後白河法皇の皇子であるが親王宣下(せんげ)も受けられない不遇の身であった。

その理由は弟の高倉天皇が平清盛の娘・徳子を中宮としていたためである。
23日

平家一門ではない以仁王は、後白河法皇が清盛によって幽閉された時も知行地(ちぎょうち)を没収されていた。

そのため、以仁王にとって平家の存在は自分の皇子としての栄達を妨げる障壁のようなものだった。
24日 挙兵までの流れ 4月9日の夜。源頼政は挙兵をうながすために以仁王を訪問した。平家に不満を持っている以仁王とはいえ、天下に君臨している平家を倒す ことは容易にできることではなかった。
そこで、平家を討つ旨を記した令旨(りょうじ)を全国の源氏に発し、源氏の力で平家を倒そうとしたのである。
25日

しかし、どこから漏れたのかは不明であるが挙兵計画は平家側に悟られてしまい、以仁王と源頼政は三井寺別名は園城寺に逃れ僧兵の応援を求めた。

三井寺の僧兵は源氏方に加勢したが、平家を打倒できる戦力には達しなかったため、さらなる助勢を求めて大和の興福寺に逃れることになる。この途中、宇治で平家の軍勢に追いつかれて敗れ、挙兵は失敗に終わった。
26日

源頼政 辞世の歌

埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 

身のなる果てぞ 哀れなりける
27日 高倉天皇 父は後白河法皇、母は清盛の妻時子の妹の平滋子。
父後白河法皇意志により生後間もなく親王宣下を受けた。
翌年、6歳で立太子。続いて8歳で六条天皇の譲位を受けて即位し高倉天皇となる。
28日

清盛の意向により娘・徳子を中宮ら迎えた。

そして言仁親王ほ生み皇太子に立てた。
29日

鹿ケ谷事件で、父・後白河と清盛が決定

的に対立、後白河は幽閉される。
30日 高倉天皇はその翌年、清盛の強訴により清盛の孫の安徳天皇

ら譲位させられた。21歳の若さで薨去されている。

31日

高倉天皇は平家の

皇位継承の道具とされたのである。