徳永圀典の「近現代史」講義 その二
幕末と開国

幕末の国際情勢      

十八世紀後半の英国産業革命は次第に西洋諸国に波及し大量生産体制に入る。原料獲得の為の植民地確保にアジアは絶好の地であった。19世紀末には日本・清・朝鮮・タイ以外は殆ど英国・フランス・オランダ・スペイン・ポルトガルの植民地となった。アヘン戦争に敗れた清は香港を英国に割譲し幕府は衝撃を受けた。依然として鎖国政策をとったが1853年米国ペルーが軍艦4隻で恫喝し開国を求めた。幕府は事態処理能力を欠いておりこれが諸大名をして政治への発言を誘発し幕府崩壊への導火線となった。そして朝廷の権威が高まる。

開国   

1854年ペルーは再来日、強硬に条約締結を要求。これが世に名高い、不平等条約の「日米和親条約」。外交知識に欠けた幕府は米国に一方的な最恵国待遇を認めた。英国・ロシア・オランダも同様に条約を結び、ここに完全に寛永16-1639年以降の鎖国体制は終焉した。この条約の不平等性を解決するのに半世紀がかかった。それは明治44-1911年の関税自主権の回復である。

不平等条約     

勅許を得ないまま井伊直弼は米国と条約の調印をした。それは1.外交官の江戸駐在、国内旅行許可。2.神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大阪の開市。3.通商は自由貿易。開港場に居留地を設け一般外国人の国内旅行禁止。4.居留地内の領事裁判権を認めた。5.関税の税率決定権を日本に与えないという不平等条約であった。これはオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結んだ。安政の五カ国条約である。この欧米諸国の手法に現代の市場経済の本質に似たものを見出すことができる。

安政の大獄     

勅許を得ないで条約締結した井伊直弼に対し公家・大名・志士は憤激した。井伊は大弾圧を加え反対者を弾圧し吉田松陰は刑死した。朝野の強い反発を招き桜田門外の変で井伊は暗殺された。井伊の後継の安藤信正大老は鎖国攘夷を約束し朝廷と幕府の融和、公武合体を画策し天皇の妹の和宮を将軍家茂の夫人に迎えた。政略結婚に反対した水戸浪士は安藤を襲う。坂下門外の変である。独自の公武合体論者島津久光の要求により参勤交代の縮小、西洋式軍制採用などの改革も実行した。文久の改革である

開国・貿易の影響  

外国との貿易は大幅の輸出超過、生産量が追いつかず物価は上昇した。大量生産の安価な綿織物の輸入で農村や業者は大打撃を受けた。江戸の問屋中心の流通機構が崩壊した。外国と金銀比価に大きい違いがあり、外人は約束に違反し銀で日本の金を購入した為に大量の金貨が海外に流出した。低品位の金貨-万延金を発行したがこの改鋳により貨幣価値が益々下がり物価上昇に拍車をかけた。貿易に対する反感が高まり在留外国人とか商人が襲撃され攘夷運動が激化した。百姓一揆が全国的に増加し都市で打ち壊しが頻発した。

吉田松陰 

松陰は条約の違勅締結を機会に倒幕に傾斜。国難に対処するには、これまでの幕府独裁政治を廃止して朝廷を中心に挙国一致体制をとらなくてはならないと主張した。その門下生達は、長州藩を尊王攘夷論に固めて倒幕の推進力となり明治新政府の骨格をなすに至る。(門下生には、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎等多数の下級武士の志士が育った。)

国内列強の動向      

長州藩は外国船砲撃の報復として英国・フランス・オランダ・米国の四国連合に砲撃された。薩摩藩は生麦事件の報復として英国の砲撃を受けた。列強国は神戸沖に軍艦を進め幕府に税率引き下げなどを強く要求。このようにして無知なアジアを植民地化、奥床しい日本人に対しては恫喝の彼等の本質は21世紀にも変わらぬものが見える。フランスは英国に対抗し幕府支援の立場で経済的、軍事的援助をした。英国は幕府政治に不信を抱き始める。

幕末維新の主要人物       

孝明天皇、明治天皇、吉田松陰、勝海舟。岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、井上馨、坂本竜馬、松平容保、三条実美、徳川慶喜、高杉晋作、伊藤博文。明治新政府の主要人物と新政府前に死亡した志士を色分けした。薩長連合無くして維新は成立しなかった。天皇・公家を除く11人中8人が薩長である。彼らは列強の野心を見抜き、日本分断化の恐れを洞察してそれを防いだ最大の功労者である。幕府は士気も無くガバナビリティを欠いていた。幕府に干されていた薩長連合、国史を紐解くがいい、日本の大改革は有史以来地方から澎湃として起きている。

維新前後の社会状況       

開国による政治と経済の大激変は社会不安を増大。世直しと呼ばれる大衆の動きが各地で発生。エエジャナイカである。伊勢神宮へお蔭参りの爆発的発生は日本独特のカタルシスであろう。これが倒幕運動にも影響。幕府は開国進取政策をとり積極的に欧米文化の輸入に努めた。薩長も同様。日本文化も海外へ紹介始める。欧米との力の差を如実に体験して、これも日本人の特徴と欠陥でもあるが一挙に雪崩のように欧米希求を始め、伝統文化を捨てすぎたきらいがある。これを第一次とするならば第二次は対米敗戦による伝統文化放棄という禍根を民族に残すはしりとなる。

近代国家の成立
王政復古     

慶応31014--1867年時勢の推移を察した将軍、慶喜は朝廷に大政の奉還を申し出た。家康以来15265年で幕府は滅んだ。幕府の野心を見抜いた薩長は政変を断行し王政復古の大号令により天皇親政による新政府を樹立。幕府にフランスが抗戦援助の申しであるも慶喜は断り恭順を堅持した。英国公使パークスの努力もあり官軍の西郷隆盛と幕府方勝海舟の会談により江戸城の無血開城なる。これにより大規模な内乱と欧米列強の介入が阻止された。これは特別に記憶していい歴史的現代的テーマである。