生死(せいし)一如(いちにょ)死んでもともと 捨身(しゃしん)即光明(そくこうみょう)(かーつ)!

正法眼蔵は難解である。閑話休題して少し休むこととする。替わりに、禅に関する問答を引用してみたい。「捨身即光明」は父の愛した書であり、私の好む掛け軸でもある。

正月でもあり、何とかの一里塚、「生死一如」、即ち「死んでもともと」を副題とする。ヘナチョコの男ばかりとなった日本男子に「喝!
平成18年元旦

 1日 死にきる

生きながら死人となりてなりはてて 思うがままにするわざぞよし「白隠禅師」

我が身を殺して生ききれ、である。
 2日 武士道

武士道とは死ぬことと見つけたり「剣禅一致」

その場その場で死にきる、が禅の精神。思いっきりやりたいことを体当たりで敢行する。死んでもともとなのである。その気概のことを私は指摘している。
 3日 戦後日本人に欠けたもの

己を捨てて何かにぶち当たる

吾が身可愛さという心がなくなれば、人生も自由自在に生き抜くこともできる。
 4日 捨身即光明

父が好きな軸であった、私も愛用の「掛け軸」である。

時折、書斎に掲げる。現役時代、腹を据えなくてはならぬ決断の時に、この書の前で瞑想した。
 5日

無門関(むもんかん)

無門慧開和尚が禅の修業者の為に書かれ禅の「公案」に使われる大切な問題48則がある。 その第41則「達磨(だるま)安心(あんじん)」の物語から始める。
 6日 達磨大師と慈海
の問答

インドから中国に来て、魏の少林寺で毎日、壁に向かい座禅ばかり、寒い夜、慈海が尋ねたが入室をさせない。雪の中に一夜立っても許さぬ。

慈海「永年修行したが、火で焼けず、水に溺れない(てい)の真の安心(あんじん)が得られない。何とか私の為に大安心を与えて下さい」

達磨大師「いいから帰れ」慈海「思い余り、左の肱を切断し達磨に出して真剣さを訴えた。

達磨「慈海さんとやら、それでは、貴方の不安心というその心を持って来て見せてごらんなさい」

 7日

慈海―流汗(りゅうかん)琳離(りんり)心頭(しんとう)扼腕(やくわん)、苦悶したが分からない、遂に「心を求めるに不可得なり。心がありません」と泣く。

達磨―「不安の心がどこにも無いということが本当に分かったら、それで全く安心じゃないか」
 8日 大安心・大安心

慈海は何度も繰り返した。「心のないのが大安心、大安心」「己の本心本性のないことが大安心」「我という色、われという香のないのが大安心」「殺せ、殺せ、我が身をころせ、何も無きとき人の師となれ」

「己が可愛い、可愛いということを無くすることが大安心」「なにもなき心を常に念じなば身のわざわいも消えはつるなり」「己を無くして、天地自然の中に溶け込んで、不生不死の自分になることが大安心」
 9日 私心を捨てる

「不可得の心」「無心の心」「不生不滅の心」

これを捉まえんと、どこまでも努力するのが人間か。ノイローゼは自分で自分を苦しめているもの。何も無いのに心に悩み、苦しみという衣を着せている人間。
10日 両忘(りょうぼう)

生死をを忘れること。生と死の対立観念を忘れること。常に相対的認識を忘れて唯一絶対の境地になれということ。

具体的10則。@有と無を忘れる。A生と死を忘れる。B心と身と二つ分けて考えない。C美と醜を対立して考えない。
11日

D利口者、馬鹿者と思わない。E神対人間と別々のものと思わない。F米国、中国と二つにならないこと。

G彼は彼、我は我と、対立しないこと。H一と万は同じと知ること。I無限大は無限少だということ。
12日

要するに、「比べない生活、他人と比較することから悩みが起きる」「対立しない生活ということ」「和合と調和の世界に生きること」

あいつは利口だ、俺はバカだ。あいつは金持ちだ、俺は貧乏だ。「あいつは美しい、俺は醜い」これではいつまでも安心(あんじん)はない。己は己でいいのだ。あれはあれでいいのだ。
13日 両忘の境地とは

自我の滅却、自我の忘却。

心身の脱落した姿が両忘の境地に他ならない。自我に固執するが故に、苦悩は生じ、自我を滅却するが故に安心がある。

14日 死にきった人は物を欲しがらない。死にきった人は物を正しく見る。死にきった人は怖がらない。 死にきった人は物に動じない。大死一番、大活現前して、無碍にして自在な生活が出来る。
15日 くよくよするな

皆の衆よ、明日死ぬのだ、人生には何もこだわることはない。くよくよするのは全て自分が可愛いからだ。こうなったらどうしよう彼が私のことをこんなふうに言ってる。あいつの方が俺のボーナスより多い、課長に睨まれている。

など悩むこと自体、自分が可愛いからだ。そんなことどうだっていいことだ、言って見れば屁のようなもんだ、
「世の中にこだわることもなかりけり我もまもなく死ぬと思えば」
16日 くよくよするな2.

呼吸を揃えて、無・無・無と念じていると、自我というものが無くなる。そうすると座ったままで大分散が起きる。

つまり自分の60キロ足らずの身体が大宇宙に大分散して行く。ああ、俺は、宇宙と一体だったんだ、もともと俺は大分散していたものなんだ、と自覚する。
17日 くよくよするな3.

我あり、我ありと思う心の方が真理ではない、と分かるようになる。

そして正しい判断、物の見方、或いは美しいものそのまま美しく感じるようになる。やはり自我を滅却した時に実現する。
18日

みんな死ぬるんだ
報国寺住職・菅原義道

死ねば争いがない。みんな死ぬのだと思い行動する、最後に行き着くとこは、みな同じだ、なんの差別もないのだ。ということに目覚めれば、器の小さい、目先のことばかりに右往左往する人間になってしまう。

幾度も葬儀に参列し法要も営んだが、ついぞ私は霊魂を見たことがない。仏の怒りにも触れたことがない、神の怒りにもふれたこともない。霊魂のタタリにも逢ったこともない。ご本尊様を一所懸命に祈ったってしようがないですよ。
19日 あなた自身が仏だ
報国寺住職・菅原義道

位牌、あれは木片だ、戒名、あれは符号ですな。

神や仏は、人間の想像による、観念上の造作物に過ぎない。自分で神や仏を造って生きて行くところに、初めて神や仏の存在がある、ということだ。
20日 自由とは

自由とは、囚われないこと、拘らないこと。悠々とのんびりした心とらわれない心。

世の中は食べてかせいで寝て起きて
ただその後は死ぬばかりなり

21日 生理的現象 生理的現象は煩悩に非ず、出物、腫れ物、ところ嫌わず。一切の生理現象はそのままでよいのだ。 天与の自然体である。恥らうこともないものだ。
22日 一大事 一大事というは、今日ただ今のことなり。 今日を不幸と思う人は永久に不幸で終わる。この世に生れた時のように「無心」になることだ。
23日 抜けた心をもて 人間どこかバケツの底の抜けたようなところがあっていいのだ。 一切を包容してしまうような心の持ち主になりたいものだ。
24日 なんでもない問答 君、百万円の宝くじが当たったそうだね。「うん、何でもないよ」。君、株で随分、損したらしいな。「うん、何でもないよ」。君、顔色が悪いな。「うん、何でもないよ」。君、60過ぎたな。「うん、何でもないよ」。 何でもないとは、「有無にあらざる絶対の無だよ」。

人に間抜けと思われるよ。「うん、何でもないよ」。
25日 眠る さあ、俺は眠るんだと力んでは眠れない。無我になり大自然のお計らいにお任せして眠らせてもらうのである。死ぬ時も眠るようなものだ。 孔子曰く、「我、生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」。社会がどうの、国家がどうの、世界が安定しなくてどうの、そんなこと言うと眠る暇などありはしない。そんな先々の心配するのは「お月様がいつ落ちるか心配するようなものだ。
26日 思うままに走れ 自分の思う方向へまっしぐらに行くことだ。毀誉褒貶に気を配り、右顧左眄しつつ日々暮らしていると、いつまで経っても不安の無くなることはない。 この世の愚か者とは、不安の虜となっている人だ。不安は誰にでもある、だがその虜となってはいけない。
27日

主人公はオレだ

無門関からの話、瑞岩和尚、毎日、自ら「主人公」と呼び「ハーイ」と答え自問自答する。 主人公とは自我ではない、主人公には実体はない。それを「無我」という、「無心」のことである。
28日 白紙になって生きる 真実の生活とは何か、凡夫はいつも対立観念という間違った認識をする。 禅師「いつでも自分は幸福者だと思えるようになるまで、そう思うのじゃ」
29日 無門関より 趙州和尚「道とは何でしょうか」 師の南泉和尚「平常心、是れ道」、朝から晩まで、なんの変哲もなく毎日やっていることが、そのごく自然な振る舞いが、すなわち全部そのまま道じゃないか」
30日 禅の心 徒に力まない、朝起きて顔を洗い、食事をし、勤めに出る。

こういう自然の振る舞いと同じく、日常の練習の積み重ねの中からしか出ないものがある。またそれが自然の理というものであり、それが「禅の心」でもある。

31日 ドーンと来い 誰が何を言おうと、右顧左眄することなく、堂々とドーンと座っていられるだけの人間になることだ。 禅書「碧眼録」第二十六則、「独坐大雄峰」。修行僧が「如何なるか、これ奇特のこと」と問す。百丈禅師「独坐大雄峰」であった。