徳永の「平家物語 読み直し」その五
少年時代、幾度も繰り返し読んだ格調高き名文の数々あるこの物語。わけても祇園精舎の冒頭は深い哲学が秘められて大きな影響を日本人に与え続けている。戦前戦後の世界、国内の政治、企業を振り返って見ても、この祇園精舎に語られている悲哀を如実に示すものだ。人間も国家も政治家も企業も奢ってはいけないのである。だが、何と申しても原文の、えもいわれぬリズムと日本語が楽しい。思うままに語って参りたい。
平成23年2月
2月 1日 |
余談 |
「馬どもはぬしぬしが心得ておとさうには損ずまじいぞ。くはおとせ。 義経を手本にせよ」とて、まづは三十騎ばかり、まッさきかけておどされけり」。(巻第九坂落) |
2月 2日 | 敦盛最後 |
「さては、なんぢにあうては なのるまじいぞ。 |
2月 3日 | 巻・第十一から灌頂巻 抄訳 平家滅亡と建礼門院 |
義経は平家への最終追討を決意する。屋島への出発の日に御家人の梶原平三景時と逆櫓(前後いずれにも進めるように艫にも舳先にもつける櫓)の取り付け問題で口論し二人の仲は悪化した。義経は悪天候の中、屋島へ奇襲をかけた。 |
2月 4日 |
夕暮れとなり、平家の船に扇の的を差し示す女人が立つ。この挑発を受けたのが那須与一であった。与一が見事に的を射た瞬間、両軍から賞賛のどよめきが起きた。当時の戦いには時に風流もあった。 |
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2月 5日 |
だが、それも束の間、再び激しい戦いが始まった。阿鼻叫喚の中、平家は1000余艘で長門の国に逃亡。対して源氏は3000艘でこれを追うのであった。 |
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2月 6日 | 先帝身投 |
最後の決戦地は壇ノ浦、当初は地の利を得た平家が潮流に乗り優位に立つ。然し、やがて潮の流れが変り一気に劣勢に立つのである。平家の敗北が決定的になった時、三種の神器のうち神璽(勾玉)を脇に、宝剣を腰にした二位尼(清盛の妻・時子)が八才の安徳天皇を抱いて入水したのであった。(先帝身投)。神器のうち、水没を免れたのは鏡だけであった。 |
2月 7日 |
平家随一の勇将・教経は義経を狙って果敢に戦うが身軽な義経は追撃をかわす。その教経も海に消えていった時、平家最後の武将・知盛も入水。壇ノ浦の海には平家の赤い旗が漂うのみであった。 |
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2月 8日 | 容赦ない平家一門への処断 |
壇ノ浦から京の都に凱旋した義経を、鎌倉の頼朝は危険視するようになる。景時の讒言によるものであるが義経は鎌倉入りを許されず兄弟の溝は深まるばかりとなった。 |
2月 9日 | 頼朝義経追討を決意 |
一方、平家方の捕虜に苛酷な制裁が下る。宗盛・清盛親子、伊豆から戻された重衡らは斬首された。 |
2月10日 | 平家の子孫はこれで断絶 |
都には北条時政が入り、苛烈な平家残党狩りを行う。平家嫡流の六代も捕えられ、後に鎌倉で処刑された。平家の子孫はこれで断絶してしまった。 |
2月11日 | 余談 | 「二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉ッて、千尋の底へぞ入り給ふ」。(巻十二先帝身投) |
2月12日 | 那須与一 |
「与一鏑をとッてつがひ、よッぴいてひやうどはなつ。小兵といふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦ひびく程長鳴して、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きッたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける」。 (巻十二那須与一) |
2月13日 | 義経腰越状 |
腰越の満福寺には義経が書いたとされる腰越状が残っている。哀切、切々たるものがある。平家物語の巻十一腰越からご披露する。ちなみに義経は奥州平泉で最後を遂げるが、この寺で義経の首実検が行われたと言う。 |
2月14日 |
「源ノ義経恐ながら申上候意趣者、御代官の其一に撰ばれ、勅撰の御使として、朝敵をかたむけ、会稽 |
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2月15日 |
将又先世の業因の感ずる歟。悲哉、此条、故亡父尊霊再誕し給はずは、誰の人か愚意の悲嘆を申ひらかん。いずれの人か哀憐をたれられんや。 |
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2月16日 |
事あたらしき申状、述懐に似たりといへども、義経、身体髪膚を父母にうけて、いくばくの時節をへず、故守殿御他界の間、みなし子となり、母の懐のうちにいだかれて、大和国宇多郡におもむきしよりこのかた、いまだ一日片時、安堵の思ひに住せず。 |
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2月17日 |
甲斐なき命をば存すといへども、京都の経廻難治の間、身を在々所々にかくし、辺土・遠国をすみかとして、土民・百姓等に服仕せらる。 |
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2月18日 |
しかれども高慶たちまちに純熟して、平家の一族追討のために上洛せしむる手あはせに、木曽義仲を誅戮の後、平氏をかたむけんがために、或時は峨々たる巌石に駿馬に鞭うッて、敵の為に命をほろぼさん事を顧みず、或時は漫々たる大海に、風波の難をしのぎ、海底に沈まん事をいたまずして、かばねを鯨鯢の鰓にかく。 |
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2月19日 |
しかのみならず、甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、しかしながら亡魂のいきどほりをやすめたてまつり、年来の宿望をとげんと欲する外、他事なし。あまッさへ義経五位尉に補任の条、当家の重職、何事かこれにしかん。 |
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2月20日 |
しかりといへども、今愁ふかく、嘆き切也。仏神の御たすけにあらずより外は、争か愁訴を達せん。これによって諸神・諸社の牛王宝印のうらをもって、野心を挿まざるむね、日本国中の大小の神祇・冥道を請じ驚かしたてまッて、数通の起請文をかき進ずといへども、猶以御宥免なし。 |
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2月21日 |
我国は神国也。神は非礼を享給べからず。憑むところ他にあらず、ひとへに貴殿広大の慈悲を仰ぐ。 |
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2月22日 |
便宜をうかがひ、高聞に達せしめ、秘計をめぐらし、あやまりなきよしをゆうぜられ、放免にあづからば、積善の余慶家門に及び、栄花をながく子孫につたへん。 |
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2月23日 |
仍て年来の愁眉を開き、一期の安寧をえん・書紙に尽さず、併令省略候畢。義経恐惶謹言。 |
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2月24日 | 大原 寂光院 |
「父祖の罪業は、子孫にむくふといふ事、疑なしとぞ見えたりける」。 (灌頂巻 女院死去) |
2月25日 |
安徳天皇をいだいて入水した二位尼こと建礼門院(清盛の娘)は、助けられたのだが、安徳天皇は漁師の網にかかり御遺骸が引揚げられたという。 |
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2月26日 | 二位尼辞世の句 |
「今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 波の下にもみやこありとは」。 |
2月27日 | 二位尼と後白河院の対談 |
壇の浦で死にそびれた清盛の娘、安徳天皇の母である建礼門院は京へ帰って出家した。大原の寂光院に住む。 |
2月28日 |
続けて、宮中での華やかな生活、都落ちの後の流浪の日々、一の谷の合戦以後の修羅と地獄を回想するのであった。そして語る人も、聞く者も、涙なしでしとどに袖を濡らした頃、夕暮れを告げる寂光院の鐘の 音が響く。 |
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やはり格調と余韻ある原文で楽しみ参ろう、3月1日から始める。 |