中国で使われる熟語の70%は日本製
中国人学者「王彬彬のため息」
国字(和製漢字)
平成21年2月度 西周氏に関して
1日 | 西周の履歴 |
20歳で津和野藩校養老館の教授となったが、29歳、津和野藩を脱藩し徳川幕府に仕えた。 |
て活躍し日本で最初に西洋哲学を紹介した。 とりわけ学術語の整作は最も有名である。 コント及びミルの実証主義による封建的旧弊打破と宗教と政治の分離を最も主張した。 |
2日 | 西周は、森鴎外と親戚関係にあり、鴎外は上京後、西周の家に寄寓していた。 復元された茅葺きの旧宅は、鴎外の生家とは津和野川を隔てて建つ。森鴎外と共に、文化人切手の中に収められている。 |
学校で習う「化学」のことを、明治のはじめまで舎蜜(セイミ)といっていた。オランダ語の発音に漢字をあてはめたものである。 |
|
3日 | 西周の逸話 |
「西家には困ったあほうが生まれたものだ」津和野の人々はこうささやきあったという。 世に「西周の油買いと米つき」と評判されるほど、周の勉強は度はずれて猛烈なもので、一般の人の目には、変人のように映ったのである。油買いに行く時は、油徳利をぶらさげ、書物を読みながら歩いた。 |
しかも、片足は下駄、もう一方は木履ぼくりという変な格好でも、いっこう平気だった。 米をつかせると、書物を読みふけるので、気が付いたときには粉米になっていたという。 少年時代のこの猛勉強が、後年の大学者西周を生むのである。 |
4日 | 西周の出生 |
西周は文政12年(1829)2月3日、津和野城下森村の藩医西時義の長男に生まれた。西家は代々外科医として藩に仕え、百石を給与されていた。天保三年周が四歳の時、後田の片河かたこうの家に移った。これが現在西周旧居として県指 |
定の史跡になっている家屋である。 周はこの家の母屋の前にある土蔵の階下に、三畳ほどの勉強部屋をもらい、猛烈な勉強を続けた。時には、母屋へ帰る時間が惜しくて、母親に握り飯を作ってもらうこともあった。 |
5日 | 西周の少年時代 |
周は片河に移った4歳のころから、祖父時雍について孝経を学び、6歳にして四書を教えられた。まさに今日でいう英才教育である。12歳で藩校の養老館に入り、本格的な勉学を始めた。 |
土蔵の中の猛勉強は養老館時代の逸話である。周の若き日の勉学ざんまいが、森林太郎・後の森鴎外に与えた影響は大きなものがあったという。 |
6日 | 西周の青年時代 |
嘉永元年(1848)周が20歳のとき、家老大岡平助に呼び出され、一代還俗を申し付けられた。つまり、医業をやめて儒学に専念せよとの藩主亀井茲監の命であった。藩主はつとに周の聡明さを見抜いていたのである。 |
25歳のとき江戸に上り、初めて洋学に接したことは、彼の運命を決定付けた。翌年、周は脱藩した。おそらく、藩命による儒学研究をやめ、洋学を学ぼうと決めたからであろう。それだけに、不退転の決意であった。やがて幕府は彼の才を認め、オランダのライデン大学留学を命ずる。周はここで2年半、法律学や経済学、それにミルの帰納法、カントの哲学などを学んで帰国した。
|
7日 | 西周の官吏時代 |
慶応2年(1856)幕府開成所の教授となり、津田真道・加藤弘之らと開成所授業規則を作成した。この年、幕府の直参に取り立てられ、15代将軍徳川慶喜のフランス語個人教授となった。その後、単に語学のみならず、政治・行政などさまざまな面で意見を述べた。 |
一方、彼は兵学にも見識を持っていたので、幕府の沼津兵学校校長も務めた。明治2年、明治政府に出仕し、陸軍省の官吏になったのも、そうした識見を認められてのことであった。彼はここで軍人勅諭を起草した。 |
8日 | 活躍した西周 |
周は陸軍省に在籍しながら、福沢諭吉・森有礼らと明六社を結成し、欧米の啓蒙思想を紹介した。維新期の教育・文化と軍事は、ともに欧米の思想・制度に基づいており、開明的な点では共通性があった。だから、明六社のメンバーであることや、のちに東京師範学校初代校長になるのだが、そのことは別に不自然ではなかったのである。 |
明治23年(1890)帝国議会開設にあたり、周は貴族院議員に任じられた。明治30年1月、病重しとみた政府は、勲一等瑞宝章、次いで男爵を授けたが、その直後、1月31日、69歳を一期として死去したのである。振り返ってみれば、周は栄達の道をばく進しているが、決して猟官運動をしたのではない。彼の深い学殖が認められたからにほかならなかった。
|
9日 | 明治初期の理論的指導者 |
周は明治前期の学者のなかでも、福沢諭吉のように政府の外部にあって自由主義を説く立場をとらず、体制内にあって漸進的立憲君主制の立場をとった。 |
そのため、御用学者とみなして過小に評価する意見もないではないが、むしろ、着実な近代化路線の理論的指導者として、高く評価すべきである。 |
10日 | 哲学の語 | 周の名を不朽のものにしたのは、数々の訳語が学術用語として定着していることである。 |
哲学の語はもっとも有名だが、そのほか、主観・客観・帰納・演繹・理性・悟性・知覚・感覚・総合・分解等々、今では完全な日用語になっている。 |
11日 |
わが国に西洋の諸文明を総合的に紹介した最初の1 人である。オランダ留学後、幕府の命令でフィセリングの講義「万国公法」を翻訳、出版。大政奉還にあたり、憲法草案「議題草案」を起草した。 |
また、明治維新後は山形有朋のブレインとして明治軍制の立案に携わり、「軍人訓誡」を起草し更にそれを発展させて「軍人勅諭」の原案を作った。1873 年に明六社が結成されるとこれに加わり、『明六雑誌』に多くの論説を発表し活発な啓蒙活動を行った。 |
|
12日 | 再評価されてしかるべき西周 |
更に主観、客観、理性、悟性、帰納、演繹など多くの哲学用語を考案している。明治維新前後の文化史を語るときに欠かすことのできない人物であるが、同時代に活躍した福沢諭吉ほどよくは知られていない。 |
また、研究論文はあるものの近年刊行された研究書の数は多くない。いわば忘れられつつある思想家の1
人と言えるかもしれない。しかし、哲学ばかりでなく様々な分野で日本の近代化に貢献した功績は再評価されてしかるべきものと思われる。 |
13日 | 代表作 |
『百一新論』 儒教批判の書で、「百教は一致なり」とする西周の根本思想をみるべきものといえる。 |
巻末で「哲学」という訳語が初めて用いられており、Philosophy を哲学と訳した最初の文献である。全集第1巻に収録。 |
14日 |
『復某氏書』 国学を批判しつつ知識論を展開したもの。 |
を体系付けたものと見ることができる大作である。 彼に関する研究の最重要な準拠資料ともなるべきものである。全集第4巻に収録。 |
|
15日 | エピソード |
西周と森鴎外とは親戚関係にあたる。即ち周の父時義は森高亮の次男で、森高亮は鴎外の曽祖父にあたるから、周にとって鴎外は従兄弟の子にあたる。森鴎外も津和野に生まれたが、年齢は30歳以上違う。伊藤整著『日本文壇史1』によれば、1874 年頃、後の鴎外、当時11 歳の林太郎少年は、通学の便のために神田の西周の家に下宿した。 |
既に45 歳の西は兵部省に勤務していたが、夕食前には |
16日 |
哲学の訳字について |
φιλοσοφια(ピロソピアー)は古代ギリシャ語に初めて使用せられた語である。ラテン語に
philosophia と音写され、後の英独仏の各国語に伝わった。この語を我々の国語で哲学という訳字で表記することは、西周の文字選定に始まるものである。この訳字使用の現在に至る定着を決定的なものにしたのは、一般に語られるところでは、明治十年の東京大学創立時に学科目名称として哲学の語が使用せられたことであるとされている。 |
定着の原因をこのように理解することは、近代日本の学術において官制大学が支配的影響力を行使してきたことを思い合わせるなら、よく納得させるものがある。しかしこの理解に欠けているのは、幕末に哲学の語を用い始めて以来明治十年前後まで、私設の学塾や著述を通じて西洋思想の新しい知識を広めた西周自身による知的活動の意義を評価する視線であろう。 |
17日 |
この時期の西周の経歴を見ると、次のようなものである。慶応元年末に欧州留学から帰朝した西周は、先の蕃書調所である開成所に復帰した。翌年に将軍慶喜に扈従するところとなり、京都に上った。慶応三年二月より、滞在する更雀寺に開いた私塾には、各地の諸藩からのべ五百人に及ぶ藩士が講筵に列するほどであった。 |
他に人を得られないことから沼津兵学校の主宰の任を請われ、当地に赴いて兵学校の体制を構想した。その予備学校として設立した小学校は、後の小学校制度の先蹤となるものであった。ほどなく明治三年明治政府に召され、兵部省出仕小丞准席を命じられ、あわせて学制取調御用掛を兼ねた。以降官辺に勤務し、兵部省、文部省、宮内省などで、制度の調査、翻訳、侍讀の任に当たっている。 |
|
18日 | 明治三年十一月より西周は公務の傍ら、私塾育英舎を開き、基礎的知識から西洋諸学科の知識までを講義した。この私塾は明治六年頃自然に消滅するような形で活動を終えたが、ここでの講義の必要から生まれた著作論文は質量とも多大なものがあり、ここから豊富な収穫が得られることになる。その中の一つとして明治七年に刊行された『致知啓蒙』がある。 |
この書は日本最初の論理学書であり、形式論理学に扱う三段論法の推論諸式を詳説し、最後の章ではミルの帰納法にまで言及するものであった。その他にも公表に至らぬながら、いくつかの論考を残している。西周は明治七年に明六社に加盟し、明六雑誌に論文を多数発表していくが、その中の幾篇かにはこの時期の論考に扱った話題を更に敷衍したものも含まれている。 |
|
19日 |
西周の活動は明治十年前後までが活発なものであり、以後はその勢いを保つがごとき様子となる。そしてこれらの活動について、「西洋文化の紹介者としてこの時代に、広義の哲学的領域に活動していた人は多々あり、その事業の今日に伝わっているものも決して少なくないが哲学者としての大きさに至っては、 |
西周は遙かに群を抜いていた。その時代の知識ある人々が認めていた如く、唯一人の哲学者であったと言っても過褒ではない。」とは麻生義輝の評価に述べるところである。この時期の西周による哲学的思索は、並び立つものも匹敵するものも一人としていない卓絶したものであった。 |
|
20日 | 「百学連環」 | 明治三年より為された「百学連環」と題せられた講義では、哲学的内容の総論にはじまり、論理学、心理学、存在論、倫理学、政治学、美学、思想史の各科目を体系的に整理し、その順に従って当時の新知識を集積して講義がなされている。この講義は一聴講者の控えの |
みからしか、その内容を窺うほかないのであるが、それによっても当時の精神文化の水準から見れば、組織的で膨大な内容は驚異的なものと言わざるを得ない。西周のかくの如き存在の大きさがあってこそ、官立大学の科目名称に採用されるのは当然のことであったとも言えるのである。 |
21日 | 「哲学」というものの存在に気づきはじめた。 |
西周においてこの訳語が定まっていく経緯がどのようなものであったのかを以下述べていきたい。西洋の学術の吸収に努めてきた江戸期の蘭学はペリーによる開国以降急速にそれまでの蘭学者によって消化された知識量をはるかにしのぐ量的拡大を成し遂げる。この時期から外国文化を吸収する営みは、 |
蘭学者の手から洋学者と呼ばれるようになったものたちへと引き継がれたのである。 そしてこの洋学研究の進展の中で、比較的に若い人々が、「哲学」というものの存在に気づきはじめた。 それは文久年間、すなわち1861年以降の頃である。そしてこの若き洋学者たちの中に西周もまた含まれていた。 |
22日 | 耶蘇教などは今西洋一般の奉ずる所に之有り候らえども、毛の生えたる仏法 |
西周の文久二年五月十五日附書簡に次の一文が見出される。「小生頃来、西洋の性理の学また経済学などの一端を窺い候ところ、実に驚くべく公平正大の論にて、従来学ぶところの漢説とは頗る端を異にし候ところもこれ有る哉に相覚え申し候。尤も彼の耶蘇教などは今西洋一般の奉ずる所に之有り候らえども、毛の生えたる仏法 |
にて、卑陋の極取るべきことこれ無しと相覚え申し候。ただヒロソヒーの学に而、性命の理を説くは程朱にも軼き、公順自然の道に本き経済の大本を建てたるは所謂王政にも勝り、合衆国英吉利等の制度文物は彼の暁舜官天下の意と周召制典型の心にも越えたりと相覚え申し候。 |
23日 | 性理論 |
蕃書調所の若い洋学者たちのあいだで、哲学というものの存在が議論せられ始めていたことが窺い知られるのである。この書簡に先立つ文久元年、蕃書調所で西周の同僚であり、また九段坂下南側にある蕃書調所の長屋の同室者でもあった |
津田真道は、「性理論」という書冊を書き記した。 この「性理論」は、ごく数葉に記された小篇の論考である。その内容は、この表題から想像されることを、西洋思想に関する知識に言及しつつ、ごく概略的に述べたものである。 |
24日 |
その批評の立場も、宋学的性理思想の色合いがいまだ濃くあるものであり、その点からすれば、近世思想史上の一時期の資料という以上の意義を持たないものであると見なせよう。 |
しかし今この書冊に言及したのは、おそらく蕃書調所の同僚の間に回覧せられた際に付せられた跋文と思われる、西周によって書き記された朱筆の一文が我々にとって注目すべき一語を含んでいるからである。 |
|
25日 | その全文 |
西土之学、伝之既百年余、至格物舎密地理器械等諸科、間有窺其室者、独特至吾希哲学一科、則未見其人矣、遂使世人謂西人論気則備、論理則未矣、独有見於此者、 |
特自吾友天外如来始、今此論頗著其機軸、既有圧夫西哲而軼之者、不知異日西遊之後、将有何等大見識、以発其蘊奥也。 西魚人妄評 |
26日 | 希哲学 |
ここに見いだされる「希哲学」の語こそ、フィロソフィーの語に対し西周によって与えられた訳語であり、後にはじめの一文字を省き「哲学」の語となって、現在我々の用いるところとなるものである。西周はなお数年の間、哲学という訳字の前身的形態で |
あるこの希哲学という語を使用し続けていく。 文久二年、彼は蕃書調所で関心を共有する洋学者を相手に講義するため、一つの講義草稿を用意した。それは西周の手控えの手帖に書かれて、今日に残されている。 |
27日 | 「希哲学」という語が見出される一節を引用しよう。 | ピタゴラスという賢人、始めて此のヒロソヒという語を用いしより創まりて、語の意は賢きことをすき好むということなりと聞こえたり。此の人と同時にソコラテスといえる賢人ありて、また此の語を継ぎ用いけるが、此の頃此の学をなせる賢者たちは自らをソヒストと名のりけり。 |
語の意味は賢哲ということにて、いと誇りたる称なりしかば、彼のソコラテスは謙遜してヒロソフルと名のりけるとぞ。語の意味は賢哲を愛する人ということにて、いわゆる希賢の意と均しかるべしとおもわる。此のヒロソフルこそ希哲学の開基とも謂うべき大人にて、彼の邦にては吾が孔夫子と並べ称するほどなり。 (文久二年の哲学講義草稿より) |
28日 |
この希哲学という言葉は極めて特殊なものであり、あまり他の人による用例は見出されない。しかし後年、津田真道によって使用せられる例が一つ確認される。 |
明治七年の明六雑誌に掲載した「開化を進る方法を論ず」という津田真道の文章中に、「希哲学」の語が使用されているのである。 |