安岡正篤先生「易と人生哲学」A 平成19年2月度 
安岡正篤先生が昭和525月から昭和542月にかけ10回に亙り「易学」を幹部教育の一環として近畿日本鉄道鰍ナ講義された。その草稿本を私は当時手に入れて再三再四熟読玩味し私の人生観に根本的な影響を受けた。
平成14年に本ホームページでも既に「易経抄解」として掲載しているが今回は詳述である。日々少しづつ丁寧に読み進むこと肝要なり。本年に喜寿を迎える私だが、人生最後の大仕事として時間をかけて、私は思い切ってこの易学に日々、本格的に挑む。 平成19年元旦 喜寿 徳永圀典

平成19年2月度

 1日 不易と変化 易と言うものは文字通り変わるということであります。天地自然、即ち造化というものは、大きな変化であるということを表す訳です。 変化というものは反面に「不易」「変わらぬ」ということがあって始めて変わるのであって変わらぬということが無ければ、変わるということもない訳です。変わらぬから変わる、変わるから変わらぬというものが底に本体にある。
 2日 易の三義

易に三義あり、と申しまして、第一は「不易」、永劫不変であります。それに即して「変化」というものがある。

この「不変に即する変化」というものは最も根本的、本質的、明々白々であり、これが易の三つの意味、即ち三義であります。
 3日 易に六義 易はその原理に基づいて、どこまでも伸びていく、窮まる所が無いという訳で、易という字に伸びるという読み方があります。 又、そういう原理に従って我々の人生をつくり上げていく即ち、修める、治める、という意味もあり、これ程の神秘はありません。この点を挙げれば、易に六義ありということが出来ます。
 4日 変化創造の原理 普通、易の書物には三義を挙げておりますが、詳しく申しますと先述のように色々の意義を含むものでありまして、変化極まりない処に変らないものを含んでおります。 それを発見し体認する。そしてそれに基づいて「不変の中の変化創造の原理」を知って生活に取り入れていくつまり人間の存在に欠くことの出来ない生活行動の原点ということになるわけであります。
 5日 易・通俗易 「不変の中の変化創造の原理」を知って生活に取り入れる、人間にとってこれくらい永久不変、切実なものはありません。元来、易は中国の周時代から特に普及発達致しまして、それが春秋から戦国時代を経て漢代になり、大体この思想体系ともいうべきものが出来上がりました。 それと同時に、民間にも次第に普及発達しました。易本来の学問というものは非常に深遠なものでありますが、これが民間に普及するにつれて色々通俗な応用も行われまして、本来の学問としての易―易学そのものと、通俗易―通俗にいう易、とは大変な相違があります。
 6日 通俗易と四柱推命 一般にはこの通俗易が一番普及しておりますから、よく知られております。そこでこの通俗易と、それに従って色々派生して参りました易に基づく民間の思想、或いは解説と言ったもの、即ち九星であるとか、方位であるとか、淘宮であるとか沢山あります。

そのうちで一番実用的に優れたものは「命理学」と申しまして運命の理、通俗には「四柱推命」と言います。四柱推命は中々複雑で難しく、一般の算木、筮竹、その他家相だとか方位だとかいうような所謂通俗易ほど普及しておりません。 

 7日 四柱推命

四柱推命は、生・年・月・日・時の四つの柱から運命を推すというので四柱推命と言い、原名は「命理」―運命の理法と申しまして、これは民衆に伝わっておりますので通俗易説の中では一番内容があり、妥当性にも富んだ面白いものであります。

然し、人間はこういう理法を学んでも、いかにこの理法に従って修業するかということが肝腎でありました、どういう家庭、とどういう両親から生まれ、どういう性質だ、どういう運命だ、どうすればどうなると言うような興味本位に調べて楽しむと言うようでは真の推命学になりません。
 8日 真の推命学 真の推命学は、そういう事を調べて、それを総合して自分をつくつていく、自分の生活を創開して行くという実践的なものにならなければなりません。然し、人間というもの

は、兎角当たるとか当たらぬとかいうことに興味を持って一種の博打と同じようにこれを誤用する向きも多いのであります。これは確かに大変興味の深い、またその中に理論も大いに含んでおる面白いものであるが、とかく邪道に走り易い。 

 9日 「生・年・月・日・時」と干支 干支の干は、支はそれから派生するであります。干は十、支は十二ありまして、これを組み合わせますと六十になりますから、六十で還暦を迎えるわけであります。推命学は人間の存在及び生活活動を六十の範疇に分けて組み立て、これを「生年月日時」に照らして推命するのです。時間まで分かりますと、かなり面白い結果を知ることができます。 持って生まれた天分が、どういう過程で進展し変化するかということが分かります。然し、前にも申したと通り結論は、それに基づいていかに(よこしま)を去り、(まこと)を立て、つまり純化大成するということでありまして、大抵はそこまで行かず宿命的に考えます。然し、これを立命的に考えると大変応用のきく、また通俗性のある面白いものであります。
10日 運命 私達はよく運命という言葉を使います。処が、運命というものを多くの人は、どうにもならない、持って生まれた、決まったものであるというふうに考えがちであります。そこで運命とはいかなるものか

と申しますと、命とは動いてやまないもの、天地自然というものは、永久に動いておるように、その一部分である人間の生というものも動いてやまない、創造進化をしていくものであるという意味と、運はめぐり動くというので運命であります。 

11日 宿命 処が、宿命の宿の字は、やどいう字であり、とまるという字であります。活動を停止する、休止するという意味があります。人間は母の体内から出て呱々の声をあげた瞬間に一生のことが決まっておる。

その後の人生、即ち次第に成人して花を開き、実を結ぶ、或いは嵐にあって全うできず、中途で滅びる等のことが、きまりきっているというふうに考えるのが宿命であります。 

12日 立命 然し、自然は創造無限のクリエーション、creation

でありますから、宿命ではクリエーションになりません。

本当の運命というのは、運命の法則、理法を知ってそれに従って開拓していくべきもの、自主創造していくべきものであるというのでこれを立命と申します。
13日 四柱推命の基礎知識  この四柱推命について更に少し説明しますと生年、生月、生日、生時の四つの柱で運命を構成することは既に述べました。これに夫々干支があるわけであります。例えば本年は丁巳(ひのとみ)であります。そして本日即ち八月十二日の八月は干支は(つちのえ)(さる)。十二日の干支は(かのと)(うし)。午前十時は癸巳(みずのとみ)であります。 この日の干支―辛丑を自己として他の干支と対比して、年の干支―丁巳には親から伝承した吉凶の含性と、祖先、親等、目上の人を見る。月の干支―戊申では、成年時の含性。社会性、姉妹、朋友等の関聨。時の干支―癸巳では子孫の関係を見る。また、日の干支により配偶者を見る。とされております。
14日 本当の推命 従って丙午(ひのえうま)に生まれた女は、男を殺すなどというのは大きな誤りであることが理解できると思います。然し、問題は丙午の日に生まれた人でありますが、これは年に比較して人数が当然少ないのであります。 またこの丙午の日に生まれの人は夫婦縁に故障が生じやすいと言います。これは四柱推命によりよい配偶を得て中和する或いは変化させることが出来ますからこれを活用しますと誤れる運命観で悩んでおる人間をどんなに助けることができるかわかりません。大変応用のきく面白い問題であります。
15日 本当の推命 然しこれらに大切なことは、こういう基礎的な組織を解明して、どのように改創リクリエート recreateしていくかという所まで入らなければ本当の推命ではありません。そこで推すという字がつくのであります。つまり推究して新しくこれを立てていく。然しこういう学問、折角の統計的 推計的学説でありますが、これがとかく低俗になって本当の真理になりにくい。これを逆に正しく活用することが出来ると、どれぐらい世間の人々を救っていけるか計ることの出来ない功徳があると思います。これなども大事なことは宿命観に陥ることなく、立命に導くということであります。
16日 陰しつ録(いんしつろく)

易を応用した学問

昔から、易を応用した学問には計り知れない功徳や貢献があります。その一つは明の時代で、ちょうどわが国では豊臣秀吉時代であります。この時代に陰しつ録(いんしつろく)という書物が著されております。難しい字ですが、しつ(しつ)(さだめるという文字です。)

運命の中にある法則、これに従ってどういうふうに生活していくか、悩める者、行き詰っておる者を、どのように救済するかということであります。これは明の(えん)(りょう)(ぼん)(名は黄)という人が著した書物でありますが、非常に善い書物でありますので、時間がありましたらこの講座でも読んで講じてみると大変有益で楽しいと思います。 

17日 (えん)(りょう)(ぼん) (えん)(りょう)(ぼん)は、早く父を失い、母の手で育てられ財力に余裕がなかった。従って、当時の知識階級がするように、非常な勉強をして高等官になる試験、つまり進士の試験の準備をする暇がなかった。 当時の中国で知識階級の者が一番早く世渡りの道を立てる一つの手段は医者になることでありますので、(えん)(りょう)(ぼん)少年は母を助けるため医者になる勉強をしておりました。
18日 進士の試験 中国古代では、これに合格することが、知識階級の大きな目標であった。非常に難しいもので予備試験(郷試)という郷土で行う試験に先ず合格し、それから中央官庁の最高の試験に合格して初めて進士の称号をとる。日本の高等官試験とは比較にならぬ価値と意

義のあるもので若者の最高の仕事であり難関であった。
ある日、大変立派な風貌の老翁があらわれまして、この袁少年を見て「何を勉強しておるのか」と尋ねました。少年は「父が他界したため家が貧しく、早く立身しなければならないので、母と相談をして、医者になろうと勉強している」と答えました。
 

19日 袁少年 1 すると老人は、つくづくと少年を見て「いや、お前は立派な役人になって出世する。進士の試験にも及第する。だからそんな勉強やめて進士の試験の準備をしなさい」と教えました。その上、お前の生涯を占ってやろうと言って、 「お前は私の教え通りに勉強すれば、何年、何歳の時に予備試験を何番で合格し、本試験は何番ぐらいで合格する。そしてどういう出世をして、何歳で寿命が尽きる。大変気の毒であるが子供には恵まれない」等予言しました。
20日 袁少年2 それを聞いて袁少年は非常に感動して、従来やっておった勉強を改めて専ら進士の予備試験の準備をして受験してみますと、不思議にその老翁の予言したとおりの成績で合格しました。

そこで次のから数次の試験を受けましたとひろ、ことごとく予言の通りとなりました。そこで袁少年は、「なるほど人間には運命というものがあって自分の一生は決まっておる」と定命、宿命ということをしみじみ感じたわけであります。 

21日 袁少年3 「くだらぬ事に煩悶したり、考えたり、野心をもつたりすることは愚だ、神様がちゃんと進むべき途を予定してくれておるので、下手にもがいてくだらんことを考えても何にもならん」という一種の諦め、あるいは悟りの心境に到達しました。

そこで生意気盛りで色々煩悶もし勉強もする青年時代から、どこか悟ったような落ち着いた一種の老成した風格が出来てしまつて、若い人に似合わぬ出来物というような人間になったわけであります。ある時、進士の試験準備のため、南京のお寺に滞在して勉強しておりました。 

22日 袁少年4 そこに雲谷という禅師がおりまして「あの若者は年に似合わずよく出来ておるようだ、どういう修行をしたのだろうか」と大変興味をもった。 そこで本人に向い「お前さんは、見受けたところ若いのに似合わず人物ができとるようだが、どういう学問をしたのか、どういう修行をしたのか」と尋ねました。
23日 袁少年5 すると袁青年は「いや、私は特別にそういう勉強も修養もいたしませんが、ただ少年時代に、不思議な老易者が私を見て、お前はこうこうだと予言をしてくれました。 それが実に恐ろしいほど的確に当たりますので、人間には運命というものがあって決まりきっておる、くだらぬことを考えても何にもならんということに気がついて、世間の青年のようにつまらぬことを考えたり、煩悶懊悩することをやめました。
24日 袁少年6 あるいは、そのせいでお目にとまったのかもしれません」と素直に告白しました。 すると雲谷禅師は、呵々大笑して「何だ、そんなことか、それじゃ昔から偉人、聖人等が何のために学問修行をしたのか全く意義がないではないか。
25日 袁少年7 自分の運命は自分でつくっていくのであって、学問修行というものは、それによって人間が人間をつくっていくことなのだ、 そういう風に人間をつくつていくのが大自然、道の妙理、極意なのだ、お前の理屈では偉人、聖人等の学問修行は何にもならぬことではないか、馬鹿な悟りを持ったものだ」と喝破しました。
26日

陰しつ録

驚いた袁青年は翻然として反省大悟いたしまして、それから改めて古聖賢の学問に参じましたところ、それから後というものは、いままで何一つ予言から外れなかったのが悉く外れるようになってきた。そして自分なりに進歩向上、出世の道も歩みまして、やが

て出来ないと言われた子供もできました。そこで晩年に子供達の教訓としてその経緯を書いて残しました。これが陰しつ録であります。そして自分はそれによって初めて凡人の過ちを脱したというので号を了凡―了は終わる、悟るという文字でありまして、平凡の理法を悟ったという意味―と改めました。
27日 運命は立命 この書物は大変善い。そして応用のきく面白い行動の学問です。そのうちできるだけ引用をして御紹介したいと思います。ただ重ねて申し上げたいのは、多くの人々は、易というものはよく人間の運命を研究する学問だと思い、運命 というものを宿命的に考えております。宿命ならば運命ではありません。運命は立命―新たに創造する、でありますから易は、宿命の学問ではなく立命の学問である、ということを根本的に理解しなければならぬということであります。
28日 易は「変わる」「変える」もの 易は文字通り、変わるであり、変えるであります。 我々自身、われわれの人生、社会というものが、どういうものであり、どういう法則で存在し動くものであるのか、そしてそれに対して自分は如何に処し、いかに行動すべきかという原理を尋ねるのが易学であります。 

これを最初に十分理解し承知しておりますと、この易の学問というものは非常に面白い、極めて応用の効く、そして自分を救い、人をも救うことのできる大事な使命、力をもつたものであります。

 (来月は、「陰陽五行説)