中国で使われる熟語の70%は日本製 その3    平成21年3月
                                  中国人学者「王彬彬のため息」


国字(こくじ)(和製漢字) 

平成21年3月度

 1日 フィロソフィーの訳に関する逸話

このことから、フィロソフィーの訳を如何にするかについて、西周と津田真道の両人が意見を交換し、希哲学の訳字の選定に津田真道も深く関わっていた可能性を推定し、麻生義輝は『近世日本哲学史』において、自らも深く関与して創りだしたこの希哲学という訳語に愛着があり、なお明治七年になっても使用したものなのであろうと述べている。津田真道は「性理論」と

同じく文久元年に、「天外独語」という草稿を執筆しているのである。この天外独語は、全篇和文脈で記されており、津田真道の一つの特徴である国学知識がよくあらわれた文章である。そこに哲学を指して、「求聖学」という文字を当て、それに仮名をふって「サトリヲモトムルマナビ」、「ヒロソヒー」と記している。
 2日

このことからすれば、やはり「希哲学」は西周独自の訳字であったと言うことも出来るかも知れない。しかし、当時の、特に津田真道のような洋学者たちの間で、儒仏用語の理解がどのようであったかの知識に貧しい私には、決定的な判断は下せないのであるが、聖の文字をして、「サトリ」と読むところに、仏道的な悟りの観念を持ち込まずに理

解してもよいようにも感じられる。求聖も希哲も、文字としてみるならば、それほどの差異は無い。そこからすると、「悟り」と記したのも、単に和文脈にあわせた和訓として用いられたものであって、仏法上の意義が込められたものでは無い、とも思われる。
 3日

儒仏神の折衷的混淆理解、あるいは儒仏神の言葉の混淆的用法というものを、想定してみてもよいだろう。儒学、仏法、国学を背景として、洋学が加わったものが、津田真道の知識であるが、それらを背景とする洋学知識の咀嚼の中で、求聖学の文字が用いられていると評価するのが、自然なところである。そして、そこでの前三者は当時の一般的な知識人の背景でもあったから、求聖学の文字の使い方に、どう読み手に受け取られるかと津田真道が意識したと

ころを想定するならば、当時の日本知識人の混淆的知識に理解されやすいものを、彼は選んだのである、と言えるであろう。
このことは、後に見るように、西周が西洋思想と儒学思想との差異を意識しているのに対して、引き寄せて理解しやすいようにという態度とはいえ、従来思想との同質性や、その延長に哲学を位置づけるにすぎない態度と評価しなければならない。
 4日

さて西周自身はこの「希哲学」という言葉を、頭の希の文字を取り去って哲学という形にあらためた。希の文字を取り去ったのは、いわば西周の言語的感性に由来するものであり、彼自身によってその事情が述べられていなければ、余人にその理由は窺い知られないところのものである。またそれが何時のことであるかも明確なことは分からない。

慶応三年に起草され、明治に公刊された「百一新論」に哲学の語が見出されるのが、確認できる用例の一つである。そこから西周が哲学という形にあらためたのは慶応末明治初年のことであろうと推測される。少なくとも西周はその時期以降は常に哲学の文字を用いていることが知られている。
 5日

では、そもそも哲の文字の方はどこから由来したのだろう。
希哲学という文字の使い方は、一体どこから考え出されたものなのであろうか。現在の我々の言語知識からすると、疎遠な感のある哲の文字を用いることは、どんなところからであったのだろうか。
この事情の一端は西周によって説明されている。

明治三年に西周は私塾育英舎において「百学連環」の講義をおこなった。この「百学連環」の筆記録に残る説明によると、フィロソフィーの語は理学または窮理学と訳しても宜しいし、周茂叔の「士希賢」の意味と全く相符合するが故に、希賢学と直訳しても差し支えないと説いている。
 6日

これと同様の説明が、彼の文章にも見出される。明治四年頃に執筆された『生性発蘊』に記される西周自身の言葉を引用しよう。また後の明治十年にミルの訳書を公刊した時も、それに付した『訳利学説』において

同じことが漢文で述べられている。そしてこの説明は哲学の訳語の由来を示す重要なものであり、良く記憶して我々日本人に忘れられることの無いようにしておきたい。
 7日

「哲学原語英「フィロソフィ」、仏「フィロソフィー」、希臘の「フィロ」愛する者、「ソフォス」賢と云義より伝来し、愛賢者の義にて、其学を「フィロソフィ」と云ふ、周茂叔の所謂る士希賢の意な

り、後世の習用にて専ら理を講ずる学を指す、理学、理論などと訳するを直訳とすれども、他に紛るること多き為に今哲学と訳し,東洲の儒学に分かつ。」
 8日

この西周による訳字説明の一文は、明治四年頃に書かれた『生性発蘊』に見出されるものである。ここでフィロソフィーの意味は周茂叔の士希賢に通ずると述べているが、この理解の仕方はすでに文久二年の一文に見出され、そこでは「希賢の意と均しかるべし」と述べられている。西周は外国書に見られるフィロソフィーの議論に接し始めた初期から、周茂叔の字句に引き当てて、そこに表されるものを

参考にしてフィロソフィーの語の意味を理解しようとしていたのである。この士希賢の語は周茂叔の『通書』志学章第十に見えるものである。以下、この周茂叔がいかなる人であり、その意味するところが何であるかを説明しよう。先んじて述べておくと、西周や津田真道がこの字句に引き寄せて理解したことは、フィロソフィーの意味に照らしてみても妥当なものと評価し得るのである。
 9日

この周茂叔とはかって朱子によって、そして彼に始まる朱子学および宋学において学祖として重んじられ、そして朱子学を正統の学とした徳川幕府の日本においても尊崇せられた中国の儒者である。諸橋徹次の『大漢和辞典』には、周惇頤(しゅうとんい、1017-1073)として一項を立てられ、以下の説明を与えられている。

「宋、栄同の人。字は茂叔。諡は元公。初、分寧主簿となり、南安軍司理参事・桂陽令を経て南昌の長官に徒り、煕寧の初、転運判官となる。疾を以て南康軍の長官を求め、因って廬山蓮花峰下に家し、太極図説・通書を著し、宋学の開祖となる。居る所を濂溪といひ、世に濂溪先生といひ、後世尊んで周子といふ。」とある。
10日

この履歴に記される官職は、それほど高い地位というものではなく、現在の課長に相当する役職である。各地に下級官吏として転々として生涯をおえた人として、生前にはそれほど重んぜられることも、広く知られることも無かった人物である。−彼についての評言によれば、人物高潔

にして自然に人を感化するものある人とある。彼の門下に、程明道、程伊川が学んでいたことで、朱子が自らの道統を顕彰する際に宋学の創始者と位置づけられた。その結果重んじられるようになった人物である。
11日

周茂叔が著したとする『太極図説』は、朱子によって尊信せられために、宋儒学派には経書に次いで極めて貴重なものとみなされた。『太極図説』の最初にある「無極而太極」に、朱子は深い意味を読み込み、そこから伝統的な形而下の原理である陰陽の気に加えて、形而上

の原理としての理というものが新しく中国思想に導き入れられた。それは宋学における存在論とも言うべきものであった。宋学の理気二元論の宇宙論においては、二五〇文字のこの『太極図説』は基礎的文献に位置づけられるものであった。
12日

周茂叔の著したものに、さらに『通書』がある。この書は周茂叔のいわば道徳思想を内容とするものであり、先の『太極図説』と合わせれば周茂叔の思想の大概を知ることが出来る。この『通書』中に述べられ後世に影響あった主張は、人をして相当の勉強と修養を積むならば、聖人たるを得ることが出来るという考え方であった。
「聖可学乎。曰可。曰有要乎。請聞焉。曰一為要。一者無欲也。」(聖は学ぶ可きか。曰く、可なり。曰く、要有るか。請う聞かん。

曰く、一を要となす。一とは、無欲なり。)それまでは君子賢人こそ人をして到達すべきところのものであった。聖人は文明と制度を人々に作り与えてくれた存在として崇め尊ぶものであり、いわば人の本性を越えたところにある理想的な人格だったのである。しかし周濂溪以降、学問修養によって完成される人格として聖人が理解せられ、人をしていかにして聖人となるかを述べることが、中国思想史において重要な主題のひとつとなっていくのである。
13日

さて西周が哲学の訳字を作り出すときに引き合わせた「希賢」の出典である『通書』志学章第十は、顔淵の如き大賢にも学べば至りうることを述べる一章である。

明日から、その「志学 第十」の全文を掲載しよう。
ごく短いものである。
14日 志学 第十 『通書』 聖希天、賢希聖、士希賢。伊尹、顔淵、大賢也。伊尹耻其君不為尭舜。一夫不得其所、若撻於市。 顔淵不遷努、不貮過、三月不達仁。志伊尹之所志、學顔子之所學。過則聖、及則賢、不及則亦不失於令名。
15日

「聖希天、賢希聖、士希賢」、註には「希は望なり、別本に晞につくる」とある。私の見た本では希に「のぞむ」という訓をつけている。中江兆民は「晞」の文字で読み、「こいねがう」と訓んでいた。「のぞむ」とも「ねがう」とも訓むだとしても、希の意味するところは「欲し望む」とか、「願い求める」といった主観的心情的願望、欲求として理解されるべきではない。人間本性の働きより生じ、人をして動かしていく希求の向かう様を「希」の文字は表しているのである。

今の言葉に訳してみれば「目指して向かう」と言い換えて、もうすこし強く当為の意味を含ませてしまえるものかも知れない。特に、その実践的意味は見失われてはならない。この字句は、天聖賢のそれぞれ相互の序列を示し、学ぶ人をしてその志が向かうところは、次第に高遠なところに置き、かつそれを目指して学を修めていくべきことを述べているのである。
16日

周茂叔において賢とは、「復焉執焉之謂賢」、すなわち学問勉強によって、その天より与えられた本来の性を取り戻し、それを保持して失うことの無い人のありかたである。また聖とは「性焉安焉之謂聖」である。
つまり聖人とは天に得た性を全くし安んじて之に居るものであり、学問勉強を待たずして、

誠立たざること無く、幾明らかならざることなく、徳備わらざることないというありかたとなった人のことである。そして天とは天地のことであり、片々たる一個人にのみ片寄らず、万物をそのあるべき処に定め置き、あまねく公平にその恵みを与えるあり方をしているものである。
17日

従って周茂叔はこの一句によって、天という公平無私のあり方を我がものとした聖人を学の目的として定めようとしているのである。周茂叔にとって、人間というものは、自らの本性の働きを正しく発露させるならば、まず賢なることを目指して動かされ

ついで賢に至った者はさらに聖なる者への向上を目指し、そして聖人は天地のごとき公平な私なきありかたに向かい、ついに究極的にそこに至るものであると考えられているのである。
18日

このようにこの一句には、より上位の優れたあり方を目標にして、それを望み、そこへの向上に勉める絶えることなき営みが、学問というものであると理解する周茂叔の考え方が示されている。士、すなわち普通の人々は、生まれながらにしてなんらの工夫なくあるときは、賢愚の差別をこえられないように思われている。

しかしながらその地位は決して動かし得ないものではない。常に向上の心を奮い、進んで止むことなければ遂には生知安行の域にも達しうるものなのである。この向上の営みである学問の工夫修養を通じて到達するものが、賢であり聖であり、天なのである。
19日 第六節 西周はこのような一句を出典にして哲学の文字を創りだした。西周は希賢の文字を希哲に代えているのであるが、賢も哲もほとんど通じ合う同義の文字であるから、あらたに特別の考え方が意味として付加されたものではない。多少基本的な漢籍を探るならば、詩、大雅、下武にある「世々哲王あり」であるとか、書、酒誥に「殷の先哲王」の語があり、神明に通ずる人をいっている。 また孔子が没する数日前に歌ったとされる、禮記、檀弓、上「哲人、それ萎まんか」のごとき用例もある。しかしどれも哲の文字に特別な意味や思想を込めた用い方ではない。(孔子を聖人と呼ぶ場合を念頭に置いて)聖、賢、哲それぞれ相通ずるところのある文字であると解して良い。従って周濂溪の出典における意味を大まかに踏襲しているとみなして良いであろう。
20日

ここに大まかにというのは、賢から哲へと文字を代えているからには、周濂溪と全く同じ内容の思想をこの訳字に持たせるのではなく、やはり何か別の新しい意味を担えるようにしようとする意図を読み取ることが出来るからである。哲の文字に特殊な思想がもともと表現されることもなく、西周自身によっても特別の注釈が与えられることなく

使用されていることからすれば、文字を代えることによって、新しいものを加えたのではなく、何かを避けたのであると推測するのが、ごく自然なところであろう。そこからすれば、賢の文字が儒学的な理想との結び付きが強い文字であることが、文字を改めて哲にした理由と思われる。
21日 すなわち知識学問を通じて、人間本性の本来の働きに立ち戻り、その働きの発露を怠りなく押し進めて、遂には天地の自然本来の道理を窮めるという点では、何ら変わりのないものであるが、儒学とは大きく異なる知識学問によって、その課題を目指していくというフィロソフィーの新しさを、そして当然人間本性をどう理解するか、 また究極の原理がどんなものであるかの思想も全く異なったフィロソフィーの新しさを、あまり儒学的な色合いの付いていない哲という文字に託したのである。しかし哲の字を用いたことの意義は、理の文字を厭避した事情を考慮することから、より明瞭に浮かび上がってくるであろう。
22日 理の文字の厭避 更に考えねばならないのは、理の文字の厭避である。先に「性理論」に付された西周の跋文を記したが、この跋文の字句に着目すべきは、「西人論気則備、論理則未矣」の語句である。
その意味するところは、気、すなわち形而下の現象について西洋の学問は微細に論ずるところがあると認められるが、理、すなわち形而上の原理については東洋の学問に比べて
未だ不十分なものでしかない、というものである。これは、これまで百年に渡って物理化学工学という諸科を西洋から学んできたけれども、哲学という一科を学び知る人が居なかったために、我が国の知識人に生じていた受け止め方の特徴を捉えて西周が表現したものである。
23日

そしてこの受け止め方は幕末から明治初頭にかけて、儒学しかも特に朱子学に思想的に養われた知識人が、哲学の吸収に際して取った保守的態度の動機を構築するものでもあった。西周は尚白箚記に次のように記している。「然て理と云ふ辞、歐言にては的訳を見ず。其故にや、本邦従来の儒家は「西人未曾知理」(此の語山陽先生の書語題跋に見ゆと覚ゆ、

勿論当時は歐の學未だ開けざる故なり)と云へりと見ゆれど、是理を知らざるには非ず、指す所異なる也。」宋儒によって詳細に議論され、その微細な知識を修得してきた儒家達は、理という儒教的概念を持ち出すことによって、東洋思想は西洋の思想に対抗できるし、また一定の優位も見いだせるものと考えていたのである。
24日

従って西周が哲学の訳字説明において、「理学、理論などと訳するを直訳とすれども、他に紛るること多き為に」と記すとき、そこに深刻な背景を想像しなければならないであろう。

実際西周は「理の字の説」などの諸論文をもって、理の概念についてその意味を論究していくのである。いまここに二つほどその言及を引用しよう。
25日

・・是は理の字と餘り關渉無き様に見ゆれど、深く宋儒の指す理と同一趣の理を徴する語と成れり。是猶下に委しく論ず可し。然れど、歐人は理を知らざる所から、理と指す中にも色々の區別ありて、一層緻密也と謂ふ可し。然れど、宋儒の如く何も斯も天理と説きて、天地風雨の事より人倫上の事爲まで、皆一定不抜の天理存して、此れより外るれば皆天理に背くと定むるは、餘りに措大の見に過ぎたりと謂ふべし。−茲より爲ては疎大なる錯謬に陥りて、夫の日月の蝕、干魃、洪水の災も、人君の政治に関係せりと云ふ妄想を生ずるに到る可し。

(古人斯く思ひしは、当時人智の度卑き者から、咎む可きに非ず。宋儒諸氏も未だ歐學を知らざる者と爲れば亦咎む可きに非ざれども、今人其説を執りて是也と思ふは、皷を鳴らして攻む可き列にありと爲。)而して彌果には、伊勢の神風若くは南無妙法の旗にて、蒙古の船艦を覆したりと臆断するも已む可からざる事也。畢竟事物の細大と無く理に依る者に差異有るまじけれども、其理には先天あり、後天有り、勢に従ひて消長有り、本支有りて、一概に論ず可き者には非ざるをや。(「尚白箚記」より)
26日

理と云ふは概ね微細にて、遽かに観難きものに就て謂ふ。・・・其経に見ゆるは易に「易簡にして天下の理得」、また「理を窮め性を盡して以て命に至る」と云ひ、禮の樂記に「樂者倫理に通ずる者なり」、また「夫れ物の人に感ずるや窮り無し。而て人之好悪節無ければ則ち物至て而て人物に化せらるる也。

人物に化せらるる者は天理を滅して而て人欲を窮る者也」、また「禮なる者は理の易ふ可らざる者也」、又孟子に「心の同く然る所の者は何ぞや。理と義と謂ふ也。故に理義の我が心を悦ばす云々」などにて、今悉く考証すること能はずと雖も、六経四子の常言には非ざるなり。
27日

然るに宋儒諸賢哲に至て、殊に此字を表章して、何事にも用ふることと成り、其説に云く「性は即ち理なり。天陰陽五行を以て萬物を化生す。氣にて以て形を成す。而して理も亦焉に賦せり」、「是に於て人物の生因て其賦せらるる所の理を得て、以て健順五常之徳を爲す。所謂性なり」と。

又云「天生民を降してよりは既に之を與ふるに仁義禮知の性を以てせざること莫し。然るに其氣質之稟或は斉しきこと能はず。是を以て皆其性之有する所なるを知て、而て之を全うすること能はず」と。此等の見解即其理氣妙合等の説因て起る所なりとす。(「理の字の説」より)
28日

窮理という目標理念と一線を画さねば、哲学の独自の理解はあやうくなるし、また窮理の理念とあわさるところがなければ、日本の知識人に哲学の真価が理解評価されることがないという思想史的状況の中で、いかに西周が微妙な論評を行わねばならなかったか思いやらねばならない。「東土謂之儒、西洲謂之斐鹵蘇比(ひろそひー)。皆明天道而立人極、其實一也」(開題門)という一文から始まる文章すらあるのである。そして「理学、理論などと訳するを直訳とすれども、他に紛るること多き為に」と西周が言うとき、

「理」の文字が帯びている宋儒によって付加された煩瑣な概念内容に対する配慮が、そこに深く関わっていることが読みとれられてくるであろう。従って、西周は西洋哲学が論ずる事柄を宋学的思弁によって論断することが、その正しい理解を阻害するものであると認識し、そして哲の字を用いて哲学という新語を作成するとき、宋学的な理の思弁的思想から意識して離れねばならないという動機がそこにあったと認められるのである。
29日 東洋の儒教的窮理観念と区別するために、意識的に哲学の語を造成

後、明治になってフィロソフィーの語を訳するに、中江兆民は理学と訳した。西周の訳字と対比して、いろいろな批評がある。その一つの例に、松永昌三著『福沢諭吉と中江兆民』に述べられているものを見てみよう。そこで著者は、西周の『生性発蘊』から「今哲学と訳し,東洲の儒学に分かつ」という一文を引き、

そこから「西は西洋のフィロソフィーを東洋の儒教的窮理観念と区別するために、意識的に哲学という語を造語した」と解説している。そして哲学という語がその様な背景で作られたために「本来一般学たる哲学は、日本人にとっては一つの外来の専門学として受け取られることになった」と批評を加えている。
30日 伝統思想の流れの中で西洋哲学を受容する態度

一方で中江兆民について、彼はフィロソフィーの語を「理学」と訳しているのであるが、この「理」の字が『易経』に由来して中江兆民に採用されたことを指摘している。そして著者は、この語には普遍的、根本的原理の東洋的理解が込められており、

それをあらためてフィロソフィーの訳語として採用することによって、この理学という言葉には「東西共通性」の理解が示されていると評価し、「伝統思想の流れの中で西洋哲学を受容する態度」が現れていると述べている。
31日

従って松永昌三は、中江兆民に対しては普遍的思想への開かれた姿勢を読み取って、それを高く評価する。しかし他方西周については、「意識的に哲学という語を造語した」ものであり、その意識とは西洋の思想と儒教の思想とに差別を与えることであったと考えているのである。

ここから更に松永昌三、この區別立ての意識から作られた訳語のために、狭隘な専門的学術へと哲学を歪めていったという難点を指摘し、中江兆民に比べより低い意義を与えているのである。