傘寿」記念特集
                      (しゅう)雲斎(うんさい)の「回想」 人生とご縁 その一

はるけくもあゆみこしかな山々を 八十(やそ)()になれど道なお遠し  岫雲斎圀(しゅううんさいこく)(てん)

平成22年元旦                住友家家訓    住友村  住友村2  住友銀行本店営業部の大伽藍

この二つのビルで私は24年間過したことになる。  徳永圀典の「住友銀行」とは

懐かしき
住友銀行本店
思い出溢れる
住友銀行神戸支店
元旦

縁は異なもの不思議なもの

多逢(たほう)聖因(しょういん) (えん)尋機(じんのき)(みょう)
元旦 傘寿を迎えて 私は本年数え年八十歳を迎えた、所謂「傘寿」である。驚くべき年齢に到達した。傘寿とは、「八十が傘の字の縦書きに似ており、それに由来したものという」。いよいよ紫色を許される歳となったのである。感慨の無かろう筈はなく、この世の別れが忍び寄っている事を実感する日々である。私は住友銀行と共に人生 を送り、引退後も「趣味は住友銀行」と唱えて憚らぬ男である。
住友銀行を愛してきた、ここら辺で懐かしい方々、主として故人となられたお方を、尊敬と懐かしさと感謝の意味合いを籠めて回顧して見たいと思う。傘寿を迎えたから、もういいだろう、多逢(たほう)聖因(しょういん) (えん)尋機(じんのき)(みょう)」、「縁は異なもの不思議なもの」と思うからである
 1月2日

和顔(わげん)愛語(あいご)

この言葉は私の深く尊敬する元住友銀行取締役神戸支店長・故阪部俊作氏から教えて頂いた。私を強く信頼して頂いた課長時代の上司である。人間的に練達されたお方であった。心からご冥福をお祈り申しあげる。後で色々と阪部氏のことが出てくる。

「微笑は柔軟心に咲く花、愛語は柔軟心に結ぶ(みのり)である」、心身共に豊かな人間になるには「(しち)(じき)にして(こころ)柔軟(なよらか)であれ」と法華経(ほっけきょう)寿量品(じゅりょうぼん)にある。((しち)(じき)()柔軟(じゅうなん))(しち)(じき)は飾り気のない、素直さ、真っ直ぐ。だが直線ではない、曲がりながら目的を忘れないのが柔軟心。心の土壌をよく耕すことが肝要のようである。
 1月3日

独身寮の思い出

吹田市山田という場所にある独身寮、狸の出そうな竹薮が千里駅までの間にあり、通るのが気持ち悪かった思い出がある。次の独身寮は、大阪市の上本町七丁目近くの清風学園前の独身寮で過した。親しい先輩数人といつも細川寮長(元駆逐艦長)を取り巻き茶菓の懇談で夜を明かしたものだ。 その先輩友人とは、堀口氏(25年神戸大)、故四つ柳氏(26年東大法科)、南荘郎氏(26年東大経済)、山田氏(26年東大経済)の方々達であり、彼らの部屋に屋根伝いで入室し(ひじ)をついて本を読んだりしたものだ。
現代の銀行員のようにギスギスしていなかった。また先輩諸氏も旧制高校のバンカラ気風もあり大らかであった。
 1月4日 当時の勤務風景 私は、この上町台地の独身寮から住友銀行本店外国部に通勤していたのであるが、土曜日などは本店のある北浜から御堂筋を南下し、徒歩で1時間半はある上町台地のこの寮に帰ったこともしばしばであった。寮近くの商店街のお菓子屋さんに綺麗なお嬢さんがいて皆で甘納豆をよく買いに行きたのも懐かしい。 本店外国部は非営業店であり、ゆったりしたもので午後三時には茶菓を同僚女性が出してくれた。昼は中ノ島土佐堀川沿い住友ビルの対岸にある日本銀行大阪支店とか大阪市役所あたりの淀屋橋近い土手で男女同僚と船の流れなどを見てゆったりして過した。時には日銀横に浮ぶ著名な(しば)(とう)で鰻など食べた。隔世の感がある。
 1月5日 遊び 外国部から本店営業部外国為替課に転勤したが、同じ住友ビル内だから隣室のようなものである。川口氏(昭和25年大阪外大)と前述の南氏らと琵琶湖でヨットをした事がある、到底私には無理と知った。川口氏とは銀行宇治寮で徹夜マージャンに挑んだこともあった。中年となり比良山登山をよくしたので琵琶湖には格別に愛着もあり「琵琶湖哀歌」は今でもよく歌う。大阪市内店の次長時代、少しく不快の気持ちもあり、神戸の老舗貿易商・近藤商店のオーナー近藤(はる)()氏(一ツ橋大卒の大先輩)と登山を夢中に始めた。

二人で芦屋登山会に入り六甲山や各地の山登りを始めた。立山、白山、上高地、京都の北山などよく一緒した。奥様は主人のことは私より徳永さんの方が良くご存知だといわれたことがある。神戸女学院卒の才媛の娘さんが恵那市の会社社長夫人に嫁がれ登山の寄り道に恵那に同行したこともあった。
銀行晩年、人事部在籍中には、住友銀行山岳会会長となり各地の登山を試みた。神戸山手女子大学教授の万葉集解説付き「山の辺の道」ハイクを企画したり、奥穂高登山も実現した。銀行会長・頭取の女性秘書達も初めての登山なのに、よくあの奥穂高に挑戦したものだ。柄沢からザイテングラードして奥穂高岳を極めあの前穂高の吊尾根を通り岳沢から上高地である。驚きである。「フイトンチッドを浴びよう」と画いた大きなブルーの登山会の旗を作成したり住友ハイキングクラブのバッジも作った。老後の今尚登山に夢中になり現在も続いている。
 

 1月6日 畏友 住友銀行に入社した頃、吹田の独身寮と大阪上町寮でも同室で、共に暮らした先輩の故・四ツ柳浩氏、(26年東大法科卒)、彼は在学中に司法官試験に合格していた。私が本店外国部時代、彼は総務部法規課であった。外国部は一階、総務部は二階にあり、午前11時半には住友本店ビル最上階の通称「高等官食堂」で二人は身分不相応に昼食したりしていた。ある日、二人で 帰宅中、故・波多野人事部長(その後、取締役神戸支店長として神戸へ赴任され直接仕えることとなる、最後は副頭取)に逢い梅田新道近くのミュンヘンでビールを頂戴した。四ツ柳氏は自負心強く、末は頭取かと自負もあったやに見えた。誇り高い人柄であった。先輩を平気で(くん)づけで呼ぶなど珍しいことではなかった。現場を大切にする住友銀行で、彼は遂に挫折した。退職し弁護士となった。私は副支店長時代であったが得意先の紹介などの労をしばしばとって協力した。青年時代の懐かしい畏友である。人生とは杓子定規には参らぬことを痛感する。彼のご冥福を心からお祈り申しあげる。 
 1月7日 人間の不思議「養子の話」 私がまだ平社員で神戸支店在勤中、神戸は某社のオーナー婦人、と言っても高齢であったが、私に妻子共々養子になって会社の跡継ぎをして欲しいと言われたことがある。勿論、謝絶したが、子供はなく亡夫の庶子を跡継ぎにしたくなかったようであった。 その社長の逝去寸前、後継者も決まっていなかった。私は故・大内山取締役支店長に随行し、そのオーナーの臨終直前に質問した。社長を誰にするかであった。首をふった応答がありその通りに社長人事を運んだ。人生とは計り知れないものを感じる。現在もその会社は活躍している。おばあちゃんのご冥福を心からお祈り申しあげる。
 1月8日 摩訶不思議な人間心理―
「信託証書」
住友銀行神戸支店在勤中、西宮市仁川の600坪の大邸宅に一人住む小野としさんという老婆。私は気に入られて、松下幸之助氏が好まれたという離れの別棟を私に差し上げますと言われた。それ処か、ある日訪問したら、私に大型封書に入れたものを差し出して徳永さんにあげますと。 ピントきた私は謝絶した。その小野さんが死亡されたと聞いたある日、弁護士から電話があり徳永さんは小野さんにお金貸していますかと言う、有りませんと答えた。弁護士は徳永圀典名義で○○○万円の信託証書があるといった。私のものではございませんと申した。驚いた、身内のない小野さん、私に好意を抱いて下さったのである。小野さんご好意有難う。ご冥福を心からお祈り申し上げる。 
 1月9日 信用 コレッティと言うアメリカ人の話。ペンシルベニヤのピッツバーグの鉄鋼エンジニアリング技師であった。今から50年近く前であるから、アメリカの経済成長著しい頃。神戸支店に来て、当時数千万円のフリー円預金をしてくれた。 神戸に日本人の愛人・某がいた。コレツティはインドとか世界各国を走り回っていた。時折国際電話で、インドとかドイツから、hello tokunagasanとお金の指図をした。心から信頼をしてくれていた。人間は信用次第だなと痛感するので明日からは過去の事例を具体的に色々回顧してみよう。
1月10日 縁は異なもの 私が住友銀行本店営業部外国為替課に所属していた時、課長代理の故・森本淳氏(昭和24年京都大学卒)がいた。武田薬品社長武田長兵衛氏の甥であり父は同社会長の名門。夫人は西宮市の辰馬酒造オーナーの令嬢。森本氏に何故か私は可愛がられた。ニューヨーク支店帰りの森本氏は課長など全く意に介しない人物。 五時にはさっさと離席である。課長など無視であった。当時は不合理な話だが、遅くまで残業すると上司の覚えもよかった。森本氏は私をしばしば自宅に招いた、クラシックを聞いり、当時は珍しい一枚4千円程度のアメリカ製LPレコードを呉れたりした。当時の月給は25千円程度の時である。神戸支店長・波多野氏は最後は住友銀行副頭取の大実力者であるが人事部長から神戸支店長に転勤されていた。森本氏は神戸の外国課長をされていたが、森本氏の推薦を受けた波多野氏は私を本店営業部外国為替課から神戸支店外国為替課へ直ちに(話題から一週間後)転勤させたと聞いた。 
1月11日 森本淳氏の教え 当時、私は森本氏から次ぎのような訓育を受けた。支店長時代に片時も忘れずに応用して、それ故に不良融資を作らなかったと確信している。それは何か。融資等の与信業務に際しての三原則、@先ずメリットの明快なる見極め。Aデメリットの厳正なる把握。B最後の決断の判断尺度は「住友という信用の(ふるい)」にかける事である。 私は、住友銀行入行時から(かん)(じゅ)と命名した読書録を記載しているが、この事を詳記している。
その他実に多々、個人的実践的指導を受けた。尊敬する懐かしいお方である。
心から森本氏のご冥福をお祈り申しあげる。
(
(こん)(しゅ゜)の由来、この珠を撫でると記憶が甦るという中国の諺。)
1月12日 敬虔なカトリック山口先輩 山口敬三先輩(26年関西学院大卒)は本店営業部外国為替課で一緒であった。彼は少し先輩であったが、実に敬虔なクリスチャンで昼の昼食時には本店近くの北浜教会のミサに共に参加していた。 用瀬の自宅に来てくれたこともあり、二人ともクラシックファンでベートーベンに感激した事も懐かしい。クラシック音楽の友であった。生涯喫煙した事のない人であったが、数年前、肺ガンで逝去された。心からご冥福をお祈り申し上げる。
1月13日 豪放磊落な日高氏 住友銀行取締役神戸支店長の故・日高礼四郎氏は東大経済卒だが、実に豪放磊落、私欲のない人物であった。単身赴任である、中元歳暮は夏と冬には山のように来る。酒類以外は、みな取引先課長の私に自宅に取りにこさせて銀行職員の褒賞用に使用させたのである。珍しく物欲のないお方であった。タクアンの匂いが嫌いであった。豪快なあの笑い顔、あの哄笑、アッハッハッ、そして時に、カッカッカッー。宮崎県の旧家の御曹司であった。日高会も解散してしまい残念。風采を構わぬ、旧制高校バンカラそのままの人柄。住友林業の副社長になられた、懐かしく、惜しい方だが早くご逝去された。心からご冥福をお祈り申しあげる。

日高さんの好きな歌をご披露しておこう、島崎藤村の「朝」である。
日高氏が手タクトを振って我らも合唱した威勢のいい歌で懐かしい。


朝はふたたびここにあり  朝はわれらと共にあり
(うも)れよ眠り行けよ夢
隠れよさらば小夜(さよ)(あらし)
諸羽(もろは)
うちふる(くだかけ)
咽喉(のんど)の笛を吹き鳴らし
きょうの命の戦闘(たたかい)のよそおいせよと叫ぶかな
野に()でよ、野に出でよ 稲の穂は黄にみのりたり

草鞋(わらじ)とく()え 鎌も()れ 風に(いなな)く馬もやれ

1月14日 名支店長ばかりに仕えた不運 神戸支店在勤は実に長く、歴代支店長に言い含められて転勤させて貰えなかった。何方も住友銀行の首脳になるお方ばかりの立派な支店長ばかりあるから、初めて大阪圏の副支店長になった時、私から見て実にお粗末な支店長に一度だけ仕えた。噴飯物の人物であった、威張るのである、支店長でございなのだ。午前10時から11時に出勤する。 出勤したら支店長室をロックして立て篭もる、午後3時頃に営業場に出てきて若い職員のミスに青筋立ててミスを怒鳴る。ある日の昼前、支店長室で何をしているのかと風穴から覗いて見たら、寝ていた。もう義憤は爆発しそうとなった。傲岸で真摯な人物とは到底思えぬ、朝方は実に機嫌が悪い。東大卒の後輩某氏は、その彼に仕えて不運を嘆いていた。このような人物は決して高等な人間ではない。以後、知らぬ顔をして無視している。ハッハッハッ。
1月15日 測り知れないご恩 先輩上司の方々、或は顧客とのご縁話を色々とご披露した。まだまだ数多くあるがご生存中でありご遠慮する。人間はこうして自分を取り巻くご縁により生き続けてきている。感謝と報恩の気持ちがつのる。 人間は決して自分一人では生きておることが出来ない。将に人間(じんかん)の文字の通りである。多くの人様に支えられて今日があるのだ。これを後の人々に伝えるのが人間の使命なのではなかろうか。果して受けたご恩以上のことを自分がしているかと言えば到底そうだと言えない忸怩(じくじ)たるものがある。 
1月16日 人格者・松本専務 入社早々、私が住友銀行本店外国部に勤務していた頃である。二階の廊下を歩いていたら、当時銀行ナンバー2の故・松本専務が歩いて来られた、入社二年目のぺエーぺエーの時である、直ちに立ち止まり立礼した。すると、お言葉があった、「元気でやっていますか」との優しい眼差しとお言葉、驚いた、私はこの松本専務を終生忘れ得ない。 謙譲なお人柄、穏やかな人格者だと直感し尊敬の念を抱き続けてきた。
後年、私が支店長となり、本部に出入りした時の某常務、今は伊勢の会社の偉いさんだが、ブロック支店長会で、君たちなど何時でも首に出来ると発言した傲慢な男。面識はなかったが挨拶しても知らぬ顔した役員。豪腕銀行ドンの右腕男二人、単に商売が巧いだけで遂に銀行に多大な損害を与えた要因となった。松本専務と比較して彼等は人間的学問の素養が無かったなと洞察している。
1月17日 松本専務 後年、私が副支店長時代の支店長が松本専務のご子息であった。私はご縁を感じて懸命にお仕え申し上げた。現在でも良好なご縁を頂いており感謝に堪えない。ご縁は深い、松本専務(元・松下電子工業社長)のご逝去の報に接し600坪の大邸宅の奥の 間で尊敬してやまなかった亡き専務の森厳にして厳粛な(ひつぎ)を拝礼しこの世のお別れをさせて頂いた、今尚専務の御徳風(おんとくふう)を偲ぶことしきりである。このような立派な役員が,年々減少してしてしまった、松本専務のご冥福を心からお祈り申しあげる。
1月18日 安岡正篤先生との邂逅 昭和20年8月15日の敗戦当日私は旧制鳥取一中(現鳥取西高校)を休学中で病に臥せていた。飛行場建設の勤労動員による過労が肋膜炎を起したものの小康を得ていた。 不穏な情勢のさ中、小さな町の噂が耳に入る。ソ連が攻めて来ると。この時、本能的恐怖を感じた事を忘れる事が出来ない。翌年になると中国に出征していた軍人が続々と帰国し始め家族たちは喜びに咽んだ。
1月19日 少年の心に強烈なインパクト そして聞く戦争中あれ程悪人扱いした中華民國の蒋介石総統が[怨みに報ゆるに徳を以てす]と云い日本人を全員無事帰国させると云う。 これは少年の心に強烈なインパクトを与え東洋思想に魅せられる端緒となるが出典は『老子』と知る。爾来私はご恩を強く感じご逝去後は何時の日にか日本人として御礼の墓参をしたいものと心に秘め続けていた。
1月20日 (えん)尋機(じんのき)(みょう) 時改まって昭和50年頃私は住友銀行の某支店長であった。某病院の理事長と懇談した折、私は偶然この思いを打ち明けた。そして数日後、理事長から安岡正篤先生と料亭たに川で夕食をするから出席せよとの事。 恐いもの知らずの私は快諾する。
そのお方とは誰あろう、安岡先生の40年来の愛弟子であり篤実なる安岡教学の実践者である美原病院の創立者理事長の片岡菊雄先生である。理事長の兄上、片岡勇蔵河内師友会会長との四人である。
1月21日 安岡正篤先生と
徳永圀典の初対面
初めてお目にかかる安岡先生に未熟者でございますがとご挨拶申し上げる。これは、これはのご挨拶痛み入るとのお言葉。当時住友銀行の部店長を対象に行われた先生の講義〔東洋思想十講ーー人物を修めると云う書物となる〕とか明治以降の住友銀行幹部との交遊についてのお話を謹聴する。 初対面が宴席の場で恐れ多きこと乍ら幾度も盃を賜り感激する。
心胆から発せられる厚重なる美声、どっしりとされて威厳と慈愛が漂うご風格は今にして思えば菩薩の如しである。
巨人、哲人とはかかるお方を申すのかと身も心も緊張し震える思いでありながら先生の暖かさに包まれていた。
1月22日 至福のひとき 至福とはかかるものかとしっかりと先生をみつめる。私の人生で最も偉大なる人物との出会いの歴史的瞬間である。住友銀行勤務の最高の副産物にして無上の勝縁であり邂逅である。 清談は尽きざるも時流れて陶然たる親和が醸成される。先生は悠々たること泰山の如しである。やがて女将が筆と色紙を持参する。思いもかけぬのに安岡先生が私の為に書してご説明賜る。「修徳永善是圀典」と。
1月23日 台湾へ公賓 ほどなくして片岡理事長から蒋介石総統のご廟参拝のお誘いを受ける。安岡先生の紹介状あり台湾に公賓として入国した。そして多年の念願がかない墓参するを得た。 日本人として何か胸のつかえがおりた思いがした。その際歴史上の人物である何応欽将軍も訪ねた。蒋総統の右腕であった王新衡氏にも会ったが安岡先生の色紙の話が出ると直ちに色紙で呼応された。「録安岡先生句呼応 修徳永善是圀典」と。
1月24日 多逢聖因 縁尋機妙 両国をある面で代表する大人物の色紙に私は感激しご縁の深さに思いを新たにした。安岡先生の良く仰った多逢(たほう)聖因(しょういん) (えん)尋機(じんのき)(みょう)の不可思議さを噛みしめた。 爾来私は銀行時代を通じて安岡先生の色紙を支店長室に掲げ朝夕仰ぎみて身を律した。
そして心ある方には先生の著書百朝集を差し上げた。延べ百冊近くとなろうか。
1月25日 偉大なる対話 現在、先生の書物は書店に多数見られ多くの方々に読まれている。当時は先生の方針で書物の刊行は無く片岡理事長推薦の〔偉大なる対話ー近鉄での講義〕を拝 借した。
毎朝15分間支店長室で心を澄ませて大学ノートに写本を始め2年近くかかって完成した。
1月26日 安岡教学 一方で先生の講義は欠かさず拝聴し伊勢神宮参拝時には片岡理事長と共に私淑して謦咳に接した。それは私にとり最高の形而上的楽しみとなっていた。 そして安岡教学が次第に私の心のまた人生の大きい支えとなっていく。歴代宰相の師であられた先生がご存命ならば現今日本をどおご覧になるであろうか。今なお先生の徳風を日々お慕いしてやまない。
1月27日 一燈照隅 「顧りみて恥多きかな傘寿(かさとし)をはや過ぎたるになお到らざる」と反省するばかりだが帰郷して鳥取木鶏クラブを創設し て心ある同志と人間を語り合い道縁の一燈をささやかにかざして二十三年過ぎた。世相の悪化を悲しみ日本の未来を憂いながら。これからも先生の一燈照隅の心で歩んで行きたいと思う。
1月28日 片岡菊雄先生 安岡正篤先生との格別のご縁を賜ったお方であり、いまなお私は私淑し兄事しているお方でありご恩あるお方である。 安岡正篤先生の師友会、関西師友会に参加し安岡正篤先生の講義を聴講したり、一年に一度は伊勢神宮に安岡正篤先生にお供して参拝し世直し祈願をし「一燈照隅」を点火させて下さったお方であり私の真の師であり兄である。
1月29日 片岡先生敬慕の詩 今猶、老師(ろうし)敬慕(けいぼ)(どう)(えん)あい(つど)鳥取木鶏会
今秋、早や二十年余を喃々(なんなん)とす。
老師に導かれし活学を求め、師の含蓄(がんちく)を覚りその(しょう)(えん)、道縁に篤きものありて 老師の供恩(こうおん)(おも)うこと深し。

現今日本、末世(まっせ)の風潮を慨嘆(がいたん)るも我ら青年の気概充満、ここに一燈(いっとう)再び点火(てんか)せんか(しょう)(ぐう)(ぎょう)草莽(そうもう)の同志 (ゆう)(こう)の心は(かた)
        平成20年秋

1月30日 片岡先生 先生は、自らが精神病院を設立なされた。医師ではない。大阪府美原町500床以上の病院である。私が最初の支店長時代の得意先である。時折病院を訪ねると、必ず私を広大な病院の隅々を案内され、さもわが子を慈しむように説明される。 庭では、時に二十人くらいの患者さんが列を組んで散歩しているのに出会う。すると患者さんが一斉に「先生、先生と恰も慈父のように声をかけてくるではないか」。私はいつもこの光景に感動した、このような病院が他にあるのであろうかと。手塩にかけてここまで成長した病院、庭の樹木、生垣、花々の一つ一つが先生の愛情を受けたように整備されて行く姿に感動した。
1月31日 天は落ちてこない 片岡先生は、私を訪ねてよく来店された。支店長室で懇談をよくしたものだ。私の顔を見て洞察されたのであろう、支店長さん、「天は落ちて来ません」、「この世の事は、この世で解決します。「山より大きい猪は出て来ません」。 私を見抜いたような、これらの言葉にどれだけ勇気づけられたか計り知れない。銀行相手のヤクザ、各種トラブルは日常茶飯事だったから難しい顔をしていたのであろう。包容力のある大きな人物である。