徳永の平家物語 読み直し」その六 全体索引 

少年時代、幾度も繰り返し読んだ格調高き名文の数々あるこの物語。わけても祇園精舎の冒頭は深い哲学が秘められて大きな影響を日本人に与え続けている。戦前戦後の世界、国内の政治、企業を振り返って見ても、この祇園精舎に語られている悲哀を如実に示すものだ。人間も国家も政治家も企業も奢ってはいけないのである。だが、何と申しても原文の、えもいわれぬリズムと日本語が楽しい。思うままに語って参りたい。  平成22101日  徳永圀典

平成23年3月

 1日

大原(おおはら)御幸(ごこう)

かかりし程に、文治(ぶんじ)二年の春の頃、法皇、建礼門院大原の閑居の御すまい御覧(ごらう)ぜまほしうおぼしめされけれ(ども)、きさらぎ・やよひの程は、風はげしく、余寒(よかん)もいまだ尽きせず、峰の白雪(きえ)やらで、谷のつららもうちとけず。

 2日

春過(はるすぎ)夏きたって、北まつりも(すぎ)しかば、法皇、()をこめて、大原の奥へぞ御幸(ごこう)なる。しのびの御幸(ごこう)なりけれ(ども)供奉(ぐぶ)の人々、徳大寺・花山院(かさんのいん)土御門(つちみかど)以下(いげ)()(ぎょう)六人、殿(でん)上人(じょうびと)八人、北面(ほくめん)少々(さぶらひ)けり。

 3日

鞍馬どをりの御幸(ごこう)なれば、(かの)清原(きよはら)(ふか)養父(やぶ)()堕落寺(だらくじ)、小野の皇太后宮(こうたいこうくう)の旧跡を叡覧(えいらん)あッて、それより御輿(おんこし)にめされけり。

 4日

遠山(えんざん)にかかる(しら)雲は、(ちり)にし花のかたみなり。青葉に見ゆる梢には、春の名残ぞおしまるる。(ころ)卯月(うづき)二十日余(はつかあまり)の事なれば、夏草のしげみが末を(わけ)()らせ給ふに、はじめたる御幸(ごこう)なれば、御覧(ごろう)じなれたるかたもなし。人跡(じんせき)たえたる程もおぼしめし知られて(あわれ)なり。

西の山のふもとに、一宇(いちう)御堂(みどう)あり。(すなはち)寂光(じゃっこう)院是也(いんこれなり)

ふるう作りなせる前水(せんずい)木立(こだち)・よしあるさまの所なり。

 5日

「甍やぶれては、霧不断の香をたき、(とぼそ)落ちては、(つき)常住(じょうじゅう)(ともしび)をかかぐ」とも、かやうの所をや(もうす)べき。庭の若草しげりあひ、青柳(あおやぎ)(いと)をみだりつつ、池の(うきくさ)(なみ)にただよひ、(にしき)をさらすかとあやまたる。

 6日

中島の松にかかれる藤なみの、うら紫にさける色、青葉まじりの(おそ)(さくら)初花(はつはな)よりもめづらしく、岸のやまぶき咲きみだれ、八重(やえ)たつ雲のたえまより、(やま)郭公(ほととぎす)一声(ひとこえ)も、君の御幸(みゆき)をまちがほなり。法皇是を叡覧(えいらん)あッてかうぞおぼしめしつづける。

 7日

(いけ)(みず)にみぎはのさくら(ちり)しきてなみの花こそさかりなりけれ

ふりにける岩のたえ間より、落ちてくる水の音さへ、ゆへびよしある所也。緑蘿(りょくら)(かき)(すい)(たい)の山、()にかくと筆も及びがたし。

 8日

女院の御庵室(ごあんしつ)を御らんずれば、(のき)には(つた)槿(あさがほ)はひかかり、信夫(しのぶ)まじりの(わすれ)(ぐさ)瓢箪(ひょうたん)しばしばむなし、(ぐさ)(がん)(えん)(ちまた)にしげし。藜?(れいでう)ふかくさせり。雨原憲(げんけん)(とぼそ)をうるほす」とも言ッつべし。

 9日

杉の葺目(ふきめ)もまばらにて、時雨(しぎれ)霜もをく露も、もる月影らあらそひて、たまるべしとも見えざりける。うとろは山、前は野辺、いざさをざさに風ははぎ、世にたたぬ身のならひとて、うきふししげき竹柱(たけばしら)、都の方のことづては、まどをにゆへるませがきや、わづかに事とふ物とては、峰に()づたふ猿のこえ、しづがつ()のをのの音、これらが音信(いんしん)ならでは、正木のかづら青つづら、くる人まれなる所也。

10日 法皇

法皇、「人やある、人やある」と召されけれ(ども)、おンいらへ(もうす)ものもなし。はるかにあって、老衰(をひおとろへ)たる(あま)一人(まい)りたり。

11日

「女院はいづくへ御幸(ごこう)なりぬるぞ」と(おお)せければ、「このうへの山へ、花つみに入らせ給ひてさぶらふ」と(もうす)

12日

「さやうの事に、つかへ奉るべき人もなきにや。さこそ世を()つる御身(おんみ)といひながら、(おん)いたはしうこそ」と(おお)せければ、

13日

(この)(あま)申けるは、「五戒(ごかい)十善(じゅうぜん)御果報(おんかほう)尽きさせたまふによッて、今かかる御目(おんめ)を御覧ずるにこそさぶらへ。捨身(しゃしん)(ぎょう)に、なじかは御身をおしませ給ふべき。因果(いんが)(きょう)には「(よく)()過去因(かこいん)(けん)()現在果(げんざいか)欲知未来果(よくちみらいか)(けん)()現在因(げんざいいん)」ととかれたり。

14日

過去・未来の因果をさとらせ給ひなば、つやつや御嘆(おんなげき)きあるべからず。(しっ)()太子(たいし)は十九にて、伽那(がや)城を出で、(だん)徳山(とくせん)のふもとにて、木葉(このは)をつらねてはだへをかくし、(みね)にのぼりて薪をとり、谷にくだりて水をむすび、難行(なんぎょう)苦行(くぎょう)の功によッて、遂に(じょう)(とう)正覚(しょうがく)し給ひき」とぞ申ける。

15日 汝はいかなるものぞと仰せけり

(この)(あま)のあり様を御覧ずれば、きぬ・(ぬの)のわきも見えぬ物を、むすびあつめてぞ着たりける。あの有様にても、かやうの事申す不思議さよとおぼしめし、「(そもそも)(なんじ)は、いかなるものぞ」と仰ければ、さめざめとないて、しばしは御返事にも及ばず。 

16日 阿波内侍と申す

(やや)あッて涙をおさへて(もうし)けるは、「(もうす)につけても(はばかり)おぼえさぶらへ(ども)故少納言(こえしょうなごん)入道(にゅうどう)信西(しんぜい)がむすめ、阿波(あは)内侍(ないし)(もうし)しものにてさぶらふなり。母は紀伊()の二位、さしも御いとおしみふかうこそさぶらひしに、御覧じ忘させた給ふにつけても、身のをとろへぬる程も(おもい)()られて、今更せんかたなふこそおぼえさぶらへ」とて、袖をかほにおしあてて、しのびあへぬさま、目もあてられず。

17日

法皇も、「されば汝は、阿波の内侍にこそあんなれ。今更御覧じ忘れける、ただ夢とのみこそおぼしめせ」とて、御涙せきあへさせ給はず。供奉(ぐぶ)()(ぎょう)殿(でん)上人(しょうびと)も、「ふしぎの尼かなと思ひたれば、(ことはり)にて(あり)ける」とぞ、をのをの(もうし)あはれなり。

18日

こなたかなたを叡覧(えいらん)あれば、庭の千種(ちぐさ)露をもく、(まがき)にたおれかかりつつ、そともの小田(をだ)も水こえて、(しぎ)たつひまも見えわかず。御庵室(をんあんじつ)に入らせ給ひて、障子を引あけて御覧ずれば、一間(ひとま)には来迎(らいこう)三尊(さんぞん)おはします。

19日

中尊(ちゅうぞん)御手(みて)には五色(ごしき)の糸をかけられたり。左には()(げん)画像(えぞう)、右には善導(ぜんどう)和尚(かしょう)(ならび)に先帝の御影(ごえい)をかけ、八軸(はちじく)(みょう)(もん)九帖(くじょう)御書(ごしょ)もをかれたり。蘭麝(らんじゃ)(におい)(ひき)かへて、(こう)(けぶり)(たち)のぼる。かの浄名(じょうみょう)居士(こじ)の、方丈(ほうじょう)(しつ)の内に、三万二千のゆか床(とこ)をならべ、十方の諸仏を(しょう)じ奉り給ひけんも、かくやとぞおぼえける。障子には諸経の要文共(ようもんども)、色紙にかいて、所々におされたり。

20日

其なかに、大江(おおえ)(さだ)(もと)法師(ぼっし)が、清涼山(しょうりょうぜん)にして(えい)じたりけん、「笙歌遥聞孤(せいがはるかにきこゆこうんのうえ)雲上(くもうえ)(しょう)(じゅ)来迎(らいこう)落日前(らくじつのまえ)」ともかかれたり。すこしひきのけ、女院の御製(ごせい)とおぼしくて、

「おもひきやみ山のおくにすまいして(くも)いの月をよそに見んとは」

21日

さてかたはらを御覧ずれば、御寝所(ぎょしんじょ)とおぼしくて、竹の御さほに、あさの御衣(おんころも)、紙の御衾(おんふすま)なンどかけられたり。さしも本朝(ほんちょう)漢土(かんど)のたへなるたぐひ(かず)を尽して、綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)(よそおい)も、さながら夢になりにけり。供奉(ぐぶ)()(ぎょう)殿(でん)上人(じょうびと)も、をのをの見まいらせし事なれば、今のやうにおぼえて、皆袖をぞしぼられける。

22日 女院にてわたらせ給ひさぶらふなり

さる程にうへの山より、こき墨染(すみぞめ)(ころも)着たる(あま)二人、岩のかけぢをつたひつつおりわづらひ給ひけり。法皇是を御覧(ごろう)じて、「あれは何ものぞ」と御尋ねあれば、老尼(ろうに)涙をおさへて(もうし)けるは、「花がたみひぢにかけ、岩つつじとり()してもたせ給ひたるは、女院にてわたらせ給ひさぶらふなり。(つま)()(わらび)折具(おりぐ)してさぶらふは、鳥飼(とりかい)の中納言(これ)(ざね)のむすめ、五条大納言(くに)(つなの)(きょう)養子(ようじ)、先帝の(おん)めのと大納言(のすけ)」と(もうし)もあへずなきけり。

23日

法皇もよにあはれげにおぼしめして、御涙せきあへさせ給はず。女院はさこそ世に(すつ)る御身と言ひながら、いまかかる御ありさまを見えまいらせむずらんはづかしさよ。

24日

(きえ)()せばやとおぼしめせどもかひぞなき。よひよひごとのあかの水、結ぶたもともしほるるに(あかつき)をきの袖の上、山路(やまじ)の露もしげくして、しぼりやかねさせたまひけん、山へもかへらせ給はず。御庵室(おんあんじつ)へも()らせ給はず、御なみだにむせばせたまひ、あきれて立たせましましたる処に、内侍(ないし)の尼参りつつ、花がたみをば給はりけり。

25日 六道之(ろくどうの)沙汰(ざた)

「世をいとふならひ、なにかはくるしうさぶらふべき。はやはや、御対面さぶらふて、還御(かんぎょ)なしまいらせッさせ給へ」と申ければ、女院御庵室に入らせ給ふ。

26日

「一念の窓の前には、摂取(せっしゅ)の光明を()し、十念の柴の(とぼそ)には、(しょう)(じゅ)来迎(らいこう)をこそ待つるに、思の(ほか)に御幸なりける不思議さよ」とて、なくなく御見参(おんげんざん)ありけり。

27日

法皇、(この)(おん)ありさまを見まいらッさせ給ひて、「非想(ひそう)の八万(ごう)猶必滅(なおひつめつ)(うれい)(あい)欲界(よっかい)の六天、いまだ五衰(ごすい)のかなしみをまぬがれず。(ぜん)見城(けんじょう)(しょう)(みょう)(らく)中間(ちゅうげん)(ぜん)高台(こうだい)(かく)、又夢の(うち)の果報、幻の(あいだ)の楽み、既に流転無窮也(るてんむぐうなり)。車輪のめぐるが如し。 

28日
-31日
天人の五衰

天人の五衰の(かなしみ)は、人間にも(さぶらひ)ける物かな」とぞ(おお)せける。「さるにてもたれか事とひまいらせ候。何事につけても、さこそ(いにしえ)おぼしめし出で候らめ」と(おおせ)ければ、「いづかたよりをとずるる事もさぶらはず。隆房・信隆の北方より、たえだえ申送る事こそさぶらへ。 その昔、あの人どものはぐくみにてあるべしとは、露も思より候はず」とて、御涙を流させ給へば、つきまいらせたる女房達も、みな袖をぞぬらされける。 
女院御涙をおさへて申させ給ひけるは、「かかる身になる事は、一旦の嘆き、(もうす)に及びさぶらはね共、後生(ごしょう)菩提(ぼだい)の為には、(よろこ)びとおぼえさぶらふなり。 (たちまち)に釈迦の(ゆい)(てい)につらなり、(かたじけな)く弥陀の本願に乗じて、五障(ごしょう)(さん)(じゅう)のくるしみをのがれ三時に六根(ろっこん)をきよめ、一すぢに九品(くほん)浄刹(じょうせつ)をねがふ。専ら一門の菩提をいのり、つねは三尊(さんぞん)来迎(らいこう)()す。 いつの世にも忘がたきは先帝の御面影、忘れんとすれ共忘られず。しのばんとすれ共しのばれず。ただ恩愛の道ほどかなしかりける事はなし。されば(かの)菩提(ぼだい)のために、あさゆふのつとめおこたる事さぶらはず。是もしかるべき(ぜん)知識(ぢしき)とこそ覚へさぶらへ」と申させ給ひければ、法皇(おおせ)なりけるは、「此国は、粟散(そくさん)辺土(へんど)なりといへども、(かたじけな)十善(じゅうぜん)()(くん)に答て、万乗(ばんじょう)のあるじとなり、随分(ひとつ)として、こころにかなはずといふ事なし。