日本、あれやこれや その59
平成21年3月

戦争秘話

 1日 1歴史に埋もれた旧日本軍の英兵救助 【フルーム(英イングランド南西部)=木村正人】第二次世界大戦中、インドネシア沖海戦で艦隊が撃沈されて、漂流していた英兵422人を救助した旧日本 軍の、駆逐艦「雷(いかずち)」の故工藤俊作艦長をしのぶ墓前祭と顕彰式が、それぞれ埼玉県、東京都内で開かれた。
 2日 戦争秘話

この戦争秘話を最初に明かした元英海軍士官サミュエル・フォール氏(89)は一連の行事出席のため来日するのを前に、「命を助けてもらった恩返し

に日英友好に役立ちたい」と話しており、今回の催しは、旧日本軍の捕虜となった英兵たちと日本側との和解プロセスの一助にもなると期待されている。
 3日 フォール氏は語る 1942(昭和17)年3月1日、現インドネシア・ジャワ島のスラバヤ沖海戦で、英重巡洋艦エクゼターと駆逐艦エンカウンターが旧日本海軍の艦隊に撃沈された。両艦の乗組員らは海に投げ出され24時間漂流。 力が尽きる寸前の翌2日、雷に発見された。「幸い海は温かかった。遠くに見えた船影が日本艦とわかった時は機銃掃射を覚悟した」と、エンカウンターの士官だったフォール氏は語る。
 4日 工藤艦長 雷では、工藤艦長が艦橋で「戦いが終われば敵も味方もない。全員救助せよ」と命じ、「救助活動中」の国際信号旗が掲げられた。乗組員は縄ばしごや竹竿 で英兵を次々と救助、砲員だった勝又正氏(88)は「目の前で沈んでいく英兵もいた。われわれは220人。甲板は倍近い英兵でいっぱいになった」と語る。
 5日 フォール氏によると、工藤艦長は集められた英士官たちに、
「貴官らはよく戦われた。本日は日本海軍のゲストである」
と述べ十分な食料をふるまった。
この救助劇はしかし、フォール氏が87年に米海軍機関誌に「騎士道」と題して寄稿するまで語られることはなく、戦友らは旧日本軍を称えた氏をいぶかった。
 6日 反日感情も 大戦中、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出された英兵ら連合国軍捕虜5万5000人のうち1万人余までが死亡 英国内では元戦争捕虜らを中心に、戦後40年たった当時も反日感情が強かったからだ。彼らの一部は今も、同じ思いを引きずっている。
 7日 金歯 戦後、外交官になり退職していた氏は「戦争はとうに終わった。日英間には真の和解が必要だ」と願い、天皇、皇后両陛下が訪英された98年にも英紙タイムズに同様の寄稿をしている。日本軍の捕虜にもなった。氏はその時の記憶を問われて、終戦まで 3年半近くは「その話はするつもりはない」と口ごもり、さらに促すと、「金歯」と呼ばれる旧日本軍の軍曹が「2〜3人の捕虜を殴らないと熟睡できない」として捕虜を虐待していた事実を打ち明けた後、涙をぬぐった。
8日 黙す 工藤氏は79年に77歳で他界するまで、救助劇のことは家族にも語らなかった。雷の元航海長、谷川清澄氏(92)は「口が重く、温厚な人だった。 きざな言い方をすれば武士道だが、当たり前のことをしただけだから、決断した艦長も口外しなかった」と話す。
 9日 敵兵救助 勝又氏によると、姉妹艦の「電(いなずま)」も救助活動を行っており、旗艦の司令官も工藤艦長の決断を承認していたという。救助劇を題材に『敵兵を救助せよ』を出版した元海上自衛隊士官  の作家、恵隆之介氏は、「工藤艦長が海軍兵学校で薫陶を受けたのは鈴木貫太郎校長(海軍大将)だった」と指摘する。
10日 東洋の騎士道 大戦末期に首相を務めた鈴木は45年4月、フランクリン・ルーズベルト米大統領の死去を知り、『深い哀悼の意を米国民に送る』 との談話を発表、米国に亡命中のドイツ人作家、トーマス・マンが「東洋の騎士道を見よ」と称賛している。(終わり)
11日

外人の考える「古事記」
「日本書紀」
 

ストロースは、世界各地には太古の神話の断片が散在しているが、古事記や日本書紀には、それらが網羅され集成されている点に瞠目している。日本以外の地域では、バラバラの断片でしか見られない神話が、完璧な形で集約され総合されているのが日本であるとしている。

海彦、山彦など一つの物語として、歴史的世界から現在へとスムーズに移行している唯一の国が日本だと。比較文明論の大家が賞賛している意味は巨大であり日本は燦然と輝いた歴史の国であると言える。 

12日

神様は森にいます

 

それは何故であろうか。
私の潮流寄稿に「神様は森と水」にパルテノン神殿は廃墟だと書いた。当にその通りを西欧人も感じたのである。
要するにイスラエル、パレスチナの遺物は現在と隔絶された過去のものであるが、日本の神社、遺物は太古より現在まで連綿と生きて現存していると感動したのである。
13日 神様の末裔

西欧人は更に、神様の末裔の天皇がなお連綿として

続き存在している事を知り驚嘆するのである。
14日 西洋でも中国・インドでも 西洋、中国、蒙古などは新しいものが形成されると前の物は捨てられ復元することはないという。インド・中国でも蒙古のジンギスカン蒙古の侵略により戦乱  王朝転覆により前王朝やそれまでの文化は破壊され失われている。中国の端的な例は、焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)である。 
15日 万世一系

だが、日本では政権交代が起きても前の文化はそのまま継続され新しい文化も共存している。それは万世一系の天皇の存在のしからしむものである。

天皇の存在の日本人の英知は計り知れないものがある。
16日 ストロースは日本に感動

レヴィ・ストロースはユダヤ人であり、本来ならば聖地パレスチナに感動すべきなのである。

ダビデの神殿跡やベツレヘムの洞窟、キリストの聖墓、ラザロの墓よりも感動したのが日本だというのだ。
17日 天照大神に感動

瓊瓊(にに)(ぎの)(みこと)の天下った霧島の山や、大日るめ(おおひるめの)(むち)

即ち天照大神が身を隠した洞窟の前にある(あまの)岩戸(いわと)神社に深い感動を覚えたのだ。
18日 レヴィ・ストロース ベルギーの民族学者・文化人類学者。彼の言葉を紹介しよう。

「私が非常に素晴らしいと思うのは、日本が最も近代的な面に於いても、最も遠い過去との(きずな)を持続し続けていることが出来るということです。私達、西欧人も自分達の根があることは知っているのですが、それを取り戻すのが大変難しいのです。

もはや、乗り越えることの出来ない溝があるのです。その溝を隔てて失った根を眺めているのです。だが、日本には、一種の連続性という絆があり、それは、おそらく、永遠ではないとしても、今なお存続しているのです」
19日 断絶の無い稀有(けう)の歴史 ストロースは言う「西欧は古代ギリシャ・ローマ時代を精神的故郷と思っているが、 現在の西欧文明とは本質的に別の社会・文化である。過去との継続性が無く溝がある。
20日 自らの価値を知らない日本人

処が、日本は神話時代からの長い歴史の継続がある上に民族文化が今尚行き続けており過去と現在が繋がっている。

その事に心ある西欧人は驚く感嘆しているが日本人には当たり前で自らの価値を感じていない。
21日 古代からの連続性 日本の古代からの、どの時代の建造物、芸術、書物、短歌などに日本人は少しも違和感も溝も感じない。 寧ろ懐かしく(いにしえ)からの連綿たる文化を肌で味わい心の安らぎを得ている。
22日

神社は最近出来たものと思わず古代からのものと感じている。1000年以上続いている家も多数ある。

至る所で途切れない古代との連続性、これは実に素晴らしい日本の伝統で大切にして行かねばならぬものである。
23日 千秋楽の胴上げ 祭事を司る行司が御幣(ごへい)を胸に抱き新弟子の手で三度胴上げされる。 大相撲千秋楽、15日間土俵を見守った神に見立て、天に送るのである。神聖な土俵は土塊に戻る。
24日 相撲

大相撲は神事である。日本書紀にも記されている日本の相撲は、農耕文化と強く結びついている。平安時代に五穀豊穣、天下泰平を祈願する国家的占い「相撲節会」に発展した。

全国各地の農民が相撲人として招集され雅楽が奏上される宮廷で、力と技を競った武家社会では、身体の鍛錬として武道化し江戸時代には職業相撲として興行へと変化した。
25日 神事 相撲は興行化しても根底には神事の精神が残っている。神送りは江戸時代の文献にもある。 日本の祭りは、その期間、神を迎え、終れば送るのが本来の姿。中世以前から行われていたであろう。
26日 土俵祭り 本場所初日前日の「土俵祭り」には協会幹部が列席し厳かに行われる。行司が祭主を努め土俵中央に勝栗  洗米、昆布、スルメ、塩、カヤの実などの「鎮め物」を納め土俵の安全を祈るのである。 
27日 (ちり)手水(ちょうず)

取り組みの土俵で力士が最初に行う「(ちり)手水(ちょうず)」は、蹲踞して拍手を打ち、両手を広げる所作をする。

これは「武器を持たず、正々堂々と戦う」意思表示と言われるが、これは文字通り「清めの儀式」である。
28日 塵とは

(ちり)手水(ちょうず)の塵とは、草木の葉。露天で相撲が行われた頃、草木にたまった

夜露で身を清めた名残りと言われる。手を揉む動作があるのはこの経緯を知らぬと疎かになる。
29日 ()()

四股の語源は、「醜」。
その土地の醜いもの「邪気」を踏み散らす神事である。

これも「清めの儀式」で「心の持ち方」であり他のスポーツの単なるトレーニングちは違う。
30日 せり上がり 四股を踏んで悪を寄せ付けず、せり上がりで、その地の悪霊を持ち上げ、 払いのけるつもりだったとは元横綱・大鵬の言葉である。
31日 天皇と国民が同じように尊び合う世界

「私の健康について皆が心配してくれてありがとう。どうか今年もよい年であるように希望します」(昭和天皇)

約1年後、昭和64年、東京・吹上御所で昭和天皇は崩御された。闘病の間の国民の祈り、そして崩御当日の悲痛と慌しさの記憶がいまなお鮮明に残っている。今一度、昭和天皇を(しの)び、考えるために先人の言葉を紹介する。

「天下より()れば人君(天皇)(ほど)尊き者はなし。人君より視れば人民(国民)程貴き者はなし」。
    吉田松陰。

天皇と国民が同じように尊び合う世界が日本人には広がっているのである。