「戦いに敗れし国に仕えて」を読みつつ

元外務次官・駐米大使村田良平「回想録」より   その二

私と同年代、数才年長の村田良平氏の著作を、深い賛同と深甚なる敬意と同感を以て熟読しつつある。 
村田氏の妻女は、私が、住友銀行神戸支店取引先課長のとき、融資課長であった親しい同僚の赤間達文氏(昭和32年東大卒)の姉上でもある。親近感を覚える。本書・上巻の215頁に、その頃の彼の写真が家族と共に掲載されておりとても懐かしい。

赤間達文氏の父上・文三氏は、法務大臣をされる前は、高名な大阪府知事であった。
大阪は帝塚山の邸宅を訪れ、赤間氏と杯を傾けたこともあり懐かしい。実に優しいお人柄であった。
赤間氏は、不幸にして50歳代で逝去された。ここに赤間達文氏のご冥福をお祈りする。

赤間氏を偲びつつ、義兄に当たる村田氏回想録の中で、肝銘を受けた箇所を記載し広く世間に知らしめたい。村田氏の人生観と国家観に心からなる友人を意識し尊敬を禁じえないからである。
かかる人物こそ日本のトップになって欲しいと痛感する。下らぬ政治家が多すぎる。

           平成21年3月1日  徳永圀典

 1日

平和条約締結ということ

上巻
P76−77
 

平和条約を締結したことは、巨大な人的・領土的及び財的損失を甘受することを法的に受け入れたことを意味する。
日本は戦争により他の多くの国々に損害与えたが日本が宣戦の布告の詔勅で主張した通り

この戦争は自衛のための戦争であったとの主張をとろうと、東京裁判の判決の立場をとろうと、結果としては膨大な人的損失、在外資産の没収等を、すべて日本は戦争に敗れた結果として甘受した。
 2日 陳謝不必要

従って、当時大陸中国の共産党政権及びソ連との国交は正常化していなかった点は考慮しなければいけないが、日本にとってサン・フランシスコ平和条約を締結したこと自体が、日本が

行わされた実質的な贖罪の確定であり、同条約及びこれに基いて各種の賠償協定を締結実施すれば、それに加えて陳謝することはもはや必要でなくなったのである。
 3日 ドイツは戦争陳謝なし

現に、過去世界で多くの戦争が行われたが、これらに関する責任問題はすべて平和条約によって解決ずみとされたのである。後に知ったことであるが、ドイツでは、ユダヤ人、ロマ等の集団

殺害の責任は認めているが、第二次世界大戦自体についての公式陳謝は行っていないし、また遂に平和条約も結ばず、これに基ずく賠償の責任も負わなかった。
 4日 日本の醜態

然るに、日本は、与党、野党を問わず、国民の多くも、戦争により自らが被った被害、喪失はあたかも一大天災であったかの如く受け止め戦争終了後50年、60年と経っているにかかわらず、これら平和条約が定めた日本の払った犠牲によって大東亜戦争の清算は済んでいるとの国際法の法理をわきまえず

徒に過去の戦争を侵略的性格ととらえ、それをめぐる諸問題について、ひたすら外国、特に中国と韓国に今まで陳謝を繰り返している。これらは全く不必要で、かつ醜態ですらある。韓国は交戦国ですらない。しかもこれらの謝罪は、かっての敵国が、内心では全く評価していない。
 5日 連合国に対する激しい怒り
 
   P76
私は、ソ連が日本の正式降伏の前、僅か二四日間に行ったこと、及びその結果六十数万人の日本人を強制労働に服せ しめたことは極めて悪質であるが、戦勝国であるとして、何らの陳謝も行っていないことに厳しい批判を持ち続けた。
 6日 米国人の日本人に対する強烈な差別

また、私は遡って大正時代の日本人移民排斥、戦争開始前の対日経済封鎖政策、戦争開始後の日系米国人の強制収容、日本の都市への無差別焼夷弾爆撃、そして二発目の原子爆弾の使用を総合すれば、米国人の日本人に対する

強烈な人種差別意識を感じ反発を覚えた。(後年、ニュールンベルグ裁判条例の作成の仕方、さらには米国の対独政策一般を日本へのそれと比べて、この感は強くなった。)
 7日

マッカーサーなる人物 

P78

学生としてマッカーサーなる人物を見て、高貴さの微塵もない人間と結論した。
・・I SHSLL RETURN と
述べたマッカーサーの虚栄心の満足のための戦いの面が強かったことは否定できない。
 8日 日本占領時のアメリカの狙い


   P79
占領開始から約三年の米国の関心事は、日本の軍事力を完全に破壊すること、及び、再び戦力の基礎となるような精神力 と経済力を日本人に保持させないことが二本柱で、民主政治の植え付け等は、つけたしであった。
 9日 東京裁判を通じて日本人洗脳を企図の米国

よって第九条二項を含む憲法を押し付け、日本の教育制度を改革し、大東亜戦争は専ら、共同謀議に基く侵略戦争であり、日本の十五年にわたる

アジア支配の野望と最終段階であったとの観念を東京裁判を通じて日本人の頭に叩き込むことに努めた。
10日 白州次郎
「今に見ていろ」  
    P79
2005年に上梓された北康利著「白州次郎、占領を背負った男」の中に、所謂、白州手記中の一文が引用されている。 「斯クノ如クシテ、コノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル。“今ニ見テイロ゛トイウ気持チ抑エ切レス。ヒソカニ涙ス。」とある。
11日 米国に対するわだかまり

私は、占領政策の実体を白州氏の十分の一も知らなかったが「今に見ていろ」という気持ちを六年以上にわたる占領期間持ち続けた。またこれが、その後

私がよりよく米国を知り、日米関係の重要性を認識した後も、終生米国に対するわだかまりを七十八歳の今日まで持ち続けている原点である。
12日 白人の有色人種に対する偏見

戦後六十年以上経って、今でも米国の白人の有色人種に対する偏見は残っているとはいえ、大東亜戦争当時のそれに比すれば激減したと言える。

本2008年の大統領選挙の民主党候補に、黒人の血を引くオバマ氏が撰ばれたことはその象徴だ。
13日

洗脳効果の愚者日本人
ー平和憲法のおかげ 

   P85

日がたつにつれて占領中に米国の施した洗脳の効果が少しづつ浸透し、学校教師もマスコミも、所謂「進歩的文化人」の

妄説に汚染され、戦後60年余り米国の庇護と幸運により日本が平和裡に時を過せたことを“平和憲法のおかげ”と誤認する愚者が少なくない事態にまで立ち至った。
14日

しかも憲法が明白に国際的安全保障情勢の実態に合わなくなった冷戦終了以降後は解釈なり首脳間の共同声明なり国民に真実を覆い隠す特別法の立法によって違憲の疑いの濃厚な行為を続けて政府は恬として恥

じず、国民もこの欺瞞に慣れてしまって、あえてく咎めなくなっている。米国内も当時の雰囲気を知らぬ民主党のリベラル派議員が、日本の改憲反対などの干渉めいたことを口にするようにもなっている。
15日 憲法全文を軽視する 

   P85
そもそも理想論を言えば年老いた元外交官ではなく、維新当時の英傑たる吉田松陰、橋本左内、西郷隆盛クラスが首相 であったなら、
「現行憲法は、そもそも外国語の草案に基づくものであり、も手続きの合法性にも疑いがある。
16日 幕末の元勲なら「独自の憲法」にした

よって、この憲法の優れた点は残しはするが、憲法を廃案し新憲法を制定する」と宣言し、現行憲法は新憲法制定までの暫定期間事実上その規定を適用す

ることとして、敗戦という痛切な経験を十分に反映した内容の全く独自の憲法制定作業にとりかかったであろう。
17日 憲法強制と天皇 


 P85−86
(前略)。・・私はマッカーサーが、昭和天皇を人質として、九条二項と、条件の厳しすぎる改正手続条項とを入れて 憲法を強制したことは既に学生として本能的に強い反発を感じていた。
 (中略)、
18日 日本人の自尊心

憲法前文を軽蔑

心中では、憲法前文を軽蔑し、本文の規定にも個人的には尊重の念は持たず、機械的に止む無く従うことを秘かに心中に誓った次第であった。

私は一人の日本国民として、個人としてはかく今日まで自尊心を守ってきたつもりである。
19日 戦争の本質 

   P104
ドイツのホイス大統領は「戦勝国を含め総ての国が不法を行った しかし他者の不正を取り上げて自己を正当化する者には道徳上の要求をなしうる資格はない」とした。
20日 卑屈な日本人 


   P105
私は当時、改めて占領中の日本のことを振り返り、史上初めての敗戦で、かつ異民族それも白人人種による占領を受けたことのショックが大きかったという 二点でドイツと事情は異なるが占領軍に卑屈な態度で臨む日本人が多かったことを想起した。
21日 ドイツ人と日本人の相違

この点、過半数のドイツ人は豪然としていると言える程で、戦いに敗れたことは事実として認めはするが、そのことは米国人

ましてやロシア人のドイツ人に対する優越を認めることを意味しないとの姿勢をとり続けていたと言える。
22日 ドイツ駐在中のこと 

   P131
・・・・ドイツと現実の日本を見較べてみて、日本も戦前見分不相応と言ってもよい巨額の予算を陸海軍のため、及び朝鮮、台湾等の経営に支出し、それらは 総て民生に皺寄せられたことを知りつつも、私は大きな衝撃を感じた。
(昭和20年代後半のこと)
23日 豊かさは犠牲者の上に 七十年代には、明らかに生産力及び技術力をもって測る産業水準一般において日本は欧州の大部分の国を上回るに至った。 八十年代には、為替レートの問題はあるが、一人当たりのGNPにおいて年によっては米国お欧州の主要国から上回るに至ったのである。
24日 偉大な成功物語

私は外務省退官後も、東京、京都、さらには地方都市内を散歩したり新幹線にのって日本の田園風景を見るにつけ、(種々の理由から欧米諸国に追いつけない点は今後も残りはするが)

日本の戦後の経済復興は、ドイツのそれをも上回る偉大な成功物語であると感じるし、その一端を若き頃私も荷い得たことには秘かな満足感を持つ。
25日 日本は戦前には想像も出来なかった豊かな生活を享受

この日本の豊かさを感じると、私は今でも三百二十万名を上回る戦争の犠牲者に思いを致さないではいられない。とりわけ、飢餓や、海没により戦死された将兵、船員の無念や、原爆都市の無差別爆弾による犠牲者の

苦しみを改めて察する。そして私は、祖国は戦前には想像も出来なかった豊かな生活を、幸運と、国民の努力によって享受していますと心の中で、これら亡き方々へ報告するのだ。
26日 横田喜三郎
という男!!
横田喜三郎氏は当時最高裁判所長官として六十三年にオーストリアを公式に訪問したので、私は諸行事の通訳となり、また市中の案内も行ったが、内心では、前述の通り、同氏の国際法の著書を読んで甚だあきたらず、同氏の学説の一部には強い反発すら感じていたので、通り一辺の便宜供与しか行わなかった。 私には、如何なる理由で、かかる人物が最高裁長官になれたのかが理解不能であった。
後年更に文化勲章まで横田氏に授与したのは、政府選考基準自体が狂っていたからだろう。
27日 非文化国家
ロシア
ウイーンへ日本の観光客を案内するのに一つ目障りなものがあった。それはシュヴアルツェンベルグ広場の奥まったところにある「ソ連軍のオーストラリア解放記念碑」で、鉄兜、戦闘服のソ連兵が旗を持つ相当大きい立像だ。 オーストリア政府は、うまくその廻りに樹を植えていたので目立たず、通常の日本人の観光客などは気がつかなかった。然し私はソ連という国の「無粋さ」を示すため一部の方々はこの像へ案内した。
28日

ソ連は、ドイツ軍破って進撃、占領した国々及もソ連軍が、友邦ナチスの占領から解放した記念と称し、各国に有無を言わせず造らせたものだ。オーストリアも旧ソ連との条約により、この記念碑を維持することを義務づけられている。

しかし、第二次世界大戦の欧州の東部分の支配をめぐっては、スターリンとヒトラーという狂人に近い大悪人二人の率いる軍によって闘われたものである。
29日 ロシアの文化水準の低さ 各国はソ連軍によって前門の虎たるナチスからの占領から「解放」されたことは事実として認めはした(オーストラリアは別だったし、ハンガリーの気持も複雑だった)。然し新しい後門の狼たるソ連の支配や弾圧がそのあと襲った。そもそも、かかる記念碑づくりという発想そのものが、 二十世紀では時代遅れとも言え、自国内に限って特に自国兵士の犠牲を讃えるために建造すべきものだ。私はアーリントン墓地で、硫黄島擂鉢山頂上に星条旗を立てようとしている兵士達の像を見て愉快ではないが、反感もない。
30日 到底文化国家とは言えないロシア

私はこのソ連兵士の碑を見て、ロシア人の他国の心理に関するセンス欠如にあきれ、またこの行為の示すロシアの文化水準の低さに軽侮の念を抱いた。
近年、旧バルト三国のうちから、この種の記念碑撤去の動きが出ていて、プーチン大統領時代のロシアは強圧を加え、

民衆にこれらの国の在モスクワ大使館にデモをかけさせたりしていた。ロシアに限ったことではないが、自国製の、かつ二世代も三世代も古い歴史館を他国へ押しつけ、これを恥じない国は到底文化国家とは言えないのだ。
31日 アメリカの人種差別意識 

  P162
・・私は1964年の時点で、豪州、ニュージーランドに先駆けた日本のOECD加入に、人種問題上の意義すら認める。現在の40歳以下の日本人には想像もつかないだろうが、大東亜戦争に至るまで、日本人は形式、実質双方で有色人種であるというだけけで各種の差別を受けた。 その程度、ないしこの差別を表面に出すか否かは、私の印象では、ラテンアメリカ、欧州、カナダ、豪州、米国の順で、米国がもつともひどかった。