徳永の「平家物語 読み直し」その八
平成23年4月
六道之沙汰
女院死去
1日 |
就中仏法流布の世にむまれて、仏道修行の心ざしあれば、後生善所疑あるべからず。人間のあだなるならひは、今更おどろくべきにはあらねども、御ありさま見奉るに、あまりにせんかたなふこそ候へ」と仰ければ、女院重て申させ給ひけるは、「我平相国のむすめとして、天子の国母となりしかば、一天四海、みなたなごころのままなり。 |
2日 |
拝礼の春の始より、色々の衣がへ、仏名の年の暮、摂禄以下の大臣・公卿にもてなされしありさま、六欲・四禅の雲の上にて、八万の諸天に囲繞せられさぶろふらむ様に、百官悉あふがぬものやさぶらひし。 |
3日 |
清涼・紫雲の床の上、玉の簾のうちにもてなされ、春は南殿の桜に心をとめて日を暮し、九夏三伏のあつき日は、泉をむすびて心をなぐさめ、秋は雲の上の月を、ひとり見むことをゆるされず、玄冬素雪のさむき夜は、妻をかさねてあたたかにす。 |
4日 |
長生不老の術をねがひ、蓬莱不死の薬を尋ても、只久しからん事をのみ思へり。あけても暮れても、楽みさかへし事、天上の果報も、是には過しとこそおぼえさぶらひしか。 |
5日 |
それは寿永の秋のはじめ、木曾義仲とかやにおそれて、一門の人々、住みなれし都をば、雲井のよそに顧て、ふる里を焼野の原とうちながめ、古は名をのみ聞きし須磨より明石の浦づたひ、さすが哀に覚て、昼は漫々たる浪路をわけて袖をぬらし、夜は洲崎の千鳥とともになきあかし、浦々島々、よしある所を見しかども、ふるさとの事は忘ず。 |
6日 |
かくてよる方なかりしは、五衰必滅の悲みとこそおぼえさぶらひしか。人間の事は、愛別離苦・怨憎会苦共に我身に知られてさぶろふ。 |
7日 |
四苦・八苦、一として残る所さぶらはず。さても筑前国大宰府といふ所にて、維盛とかやに九国のうちをも追出され、山野広といへ共、立よりやすむべき所もなし。 |
8日 |
同じ秋の末にもなりしかば、むかしは九重の雲の上に見し月を、いまは八重の塩路にながめつつ、あかし暮しさぶらひし程に、神無月の比ほひ、清経の中将が、「都のうちをば源氏がために攻め落とされ、鎮西をば、惟盛がために追出さる。網にかかれる魚の如し。 |
9日 |
いづくへゆかばのがるべきかは。ながらへはつべき身にもあらず」とて、海に沈みさぶらひしぞ、心うき事のはじめにてさぶらひし。浪の上にて日を暮らし、船の内にて夜をあかし、みつきものもなかりしかば、供御を備ふる人もなし。 |
10日 |
たまたま供御はそなへんとすれ共、水なければまいらず。大海にうかぶといへども、うしほなればのむ事もなし。是又餓鬼道の苦とこそおぼえさぶらひしか。 |
11日 |
かくて室山・水島、所々のたたかひに勝しかば、人々すこし色なをッて見えさぶらひし程に、一の谷といふ所にて、一門おほくほろびし後は、直衣・束帯をひきかへて、くろがねをのべて身にまとひ、明ても暮ても、いくさよばひのこえたえざりし事、修羅の闘諍、帝釈の諍も、かくやとこそおぼえさぶらひしか。 |
12日 |
一の谷を攻落されて後、おやは子にをくれ、妻は夫にわかれ、沖につりする船をば敵の舟かと胆を消し、遠き松にむれいる鷺をば、源氏の旗かと心を尽す。さても門司・赤間の関にて、いくさはけふを限と見えしかば、二位の尼申をく事さぶらひき。 |
13日 |
「男がいき残らむ事は、千万が一も有がたし。設又遠きゆかりは、をのづからいき残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん事もありがたし。 |
14日 |
昔より、女は殺さぬならひなれば、いかにしてもながらへて、主上の後世をもとぶらひまいらせ、我等が後世をもたすけ給へ」とかきくどき申さぶらひしが、夢の心ちしておぼえさぶらひしほどに、風にはかに吹き、浮雲あつくたなびいて、兵こころをまどはし、天運尽きて、人の力に及びがたし。 |
15日 |
既に今はかうと見えしかば、二位の尼、先帝をいだき奉て、ふなばたへ出し時、あきれたる御様にて、「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と、仰さぶらひしかば、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさへて申さぶらひしは、「君はいまだしろしめされさぶらはずや、先世の十善戒行の御力によって、今万乗のあるじとは生れさせ給へども、悪縁にひかれた、御運既に尽き給ひぬ。 |
16日 |
まづ東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからんとおぼしめし、西にむかはせ給ひて、御念仏侍らふべし。 |
17日 |
此国は粟散辺土とて、心うき堺にてさぶらへば、極楽浄土とて、めでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と、泣く泣く申さぶらひしかば、山鳩色の御衣に、びンづらいはせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさううつくしい御手あはせ、まづ東をふしおがみ、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位尼やがていだき奉て、海に沈し御面影、目もくれ心も消はてて、忘れんとすれ共、忘られず、忍ばんとすれ共しのばれず、残とどまる人々とのおめきさけびし声、叫喚・大叫喚のほのほの底の罪人も、これには過じとこそおぼえさぶらひしか。 |
18日 |
さて武士共にとらわれて、のぼりさぶらひし時、播磨国明石浦について、ちッとうちまどろみてさぶらひし夢に、昔の内裏には、はるかにまさりたる所に、先帝をはじめ奉て、一門の公卿・殿上人みなゆゆしげなる礼儀にて侍ひしを、都を出て後、かかる所はいまだ見ざりつるに、「是はいづくぞ」ととひ侍ひしかば、弐位の尼と覚て、「竜宮城」と答侍ひし時、「めでたかりける所かな。 |
19日 |
是には苦はなきか」ととひさぶらひしかば、「竜畜経のなかに見えて侍らふ。よくよく後世をとぶらひ給へ」と申すと覚えて夢さめぬ。 |
20日 |
其の後はいよいよ経をよみ、念仏して、彼御菩提をとぶらひ奉る。是皆六道にたがはじとこそおぼえ侍へ」と申させ給へば、法皇仰なりけるは、「異国の玄奘三蔵は、悟の前に六道を見、吾朝の日蔵上人は、蔵王権現の御力にて、六道を見たりとこそうけ給はれ。 |
21日 |
是程まのあたりに御覧ぜられける御事、誠にありがたふこそ候へ」とて御涙らむせび給へば、供奉の公卿・殿上人も、みな袖をぞしぼられける。女院も御涙を流させ給へば、つきまいらせたる女房達も、みな袖をぞぬらされける。 |
女院死去 |
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22日 | さる程に寂光院の鐘のこえ、けふも暮れぬとうち知られ、夕陽西にかたぶけば、御名残おしうはおぼしけれども、御涙をおさへて還御ならせ給ひけり。 |
23日 |
女院は今更いにしへをおぼしめし出させ給ひて、忍あへぬ御涙に、袖のしがらみせきあへさせ給はず。はるから御覧じをくらせ給ひて、還御もやうやうのびさせ給ひければ、御本尊にむかひ奉り、「先帝聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提」と、泣々いのらせ給ひけり。 |
24日 |
むかしは東にむかはせ給ひて、「伊勢大神宮、正八幡大菩薩、天子宝算、千秋万歳」と申させ給ひしに、今はひきかへて、西にむかひ手をあはせ、「過去聖霊、一仏浄土へ」と、いのらせ給ふこそ悲しけれ、御寝所の障子に、かうぞあそばされける。 |
25日 |
御幸の御供に候はれける徳大寺ノ左大臣実定公、御庵室の柱に、かきつけられけるとかや、 こしかたゆくすえの事どもおぼしめしつづけて、御涙にむせばせたまふ折しも、山郭公音信ければ、女院、 いざさらばなみだくらべん時鳥 |
26日 |
抑壇ノ浦にて、いきながらとらわれし人々は、大路をわたしてかうべをはねられ、妻子にはなれて遠流せらる。池の大納言の外は一人も命をいけられず、都にをかれず。 |
27日 |
枕をならべしいもせも、雲いのよそにぞなりはつる。やしなひたてしおや子も、ゆきがた知らず別けり。 |
28日 |
かくて年月を過ごさせたまふ程に、女院御心ち例ならずわたらせ給ひしかば、中尊の御手の五色の糸をひかへつつ、「南無西方さ極楽世界、教主弥陀如来、かならず引摂し給へ」とて、御念仏ありしかば、大納言佐の局、阿波内侍左右に候て、いまをかぎりのかなしさに、こえもおしまずなきさけぶ。 |
29日 |
御念仏のこえ、やうやうよはらせましましければ、西に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽そらに聞ゆ。かぎりある御事なれば、建久二年きさらぎの中旬に、一期遂におはらせ給ひぬ。きさいの宮の御位より、かた時もはなれまいらせずして候はれ給しかば、御臨終の御時、別路にまよひしも、やるかたなくぞおぼえける。 |
30日 |
此女房達は、むかしの草のゆかりもかれはてて、よるかたもなき身なれ共、おりおりの御仏事営給ふぞあはれなる。遂に彼人々は竜女が正覚の跡を追ひ、韋堤希夫人の如に、みな往生の素懐をとげけるとぞ聞えし。完 |
長い間、ご閲覧有難うございました。これをもちまして一応終りと致します。 |