中国で使われる熟語の70%は日本製 その4    平成21年4月
                                  中国人学者「王彬彬のため息」

    国字(こくじ)(和製漢字) 
平成21年4月度

 4月1日 理学という言葉

松永昌三は、『中江兆民評伝』(岩波書店)という大冊の伝記的研究書の中でも、理学の訳字について著者の評価を述べるために、短い一章を特に設けてある。

そこで述べられている意見は、基本の趣旨は『福沢諭吉と中江兆民』に述べてあるものと同じである。しかし異なるのは、ここには、松永昌三自身の「理学」という言葉に対する愛好が顕著に示されていることである。
 4月2日

彼の指摘するところでは、哲の文字は普通の使用は希であり、あまり自然に思い浮かべられるものではない、他方、理の文字は現代日本語にそれを含んだ言葉が多数あり、女性の名前にもよくつけられている。このようなこともあって、哲学というものは、その言葉のために窮屈で堅苦しい、なじみにくいものと

なってしまうのだと言うのである。特に松永昌三は、みずからが勤務する大学において学生を相手に、理の文字と哲の文字それぞれへの印象を募って、理の文字への好感の存在を指摘している。これは、一般的な印象を確認するという形で、著者の理の文字への偏愛を述べているに過ぎない。
 4月3日

そもそも、一般の大学生程度の言語経験に了解されているものは、なんの基準となるものではない。

たとえ現在の我々日本人の文字知識を基準とするとしても、私には納得できるものとは思われない。
 4月4日

文字としての印象云々で意見を導いていくのでは、あくまで感想にすぎないと言わざるを得ないからである。しかも、基本的

には松永自身が理学という言葉に対して、一種の偏愛を抱いているのでは、話は訳語としての優劣ではなくなってしまっているのである。
 4月5日

哲学の訳字に関する評価は、松永昌三に限らず、一般的に、このような、現在の我々の文字知識に基づいた、印象的

優劣に終始して、同時に専門学的狭隘化の責を哲学の訳字に見いだそうとする傾向がある。
 4月6日

この傾向について、後者は訳字自体の問題ではなく、前者は訳字の作出における文字理解を怠って、各自の文字利用

における知識をみだりに持ち込んだものに過ぎない。
このことにつき、以下私の批評を述べておきたい。
 4月7日

まず前者の例として、理学という訳字についての問題点を指摘しておこう。

そもそも「理学」という訳字を当てることは中江兆民独自のものではない。
 4月8日

幕末すでに、この訳字を当てることが試みられている。
このことについて、

麻生義輝『近世日本哲学史』には次のように指摘されている。
 4月9日

「幕末に於いては辞書及び文典の編纂が行われ「ヒロソヒー

」という字句に接したものも少なくなかったのであろう。
4月10日

然しそれに与えられた訳字は「性理学」という如き支那哲学上の成語を其儘襲用している。

慶応二年に刊行された「英仏単語篇」等にさえも「ヒロソハー」に対して性理家という訳字を当てている如き状態である。
4月11日

又、後年(明治初年)哲学と同義に使用せられた「理学」は幕末時代に於いても宋儒の理氣の説から転用されて哲学

の意にも用いられ、一方では自然科学の意にも須いられて初くも訳語の混淆を来している。
4月12日

慶応二年の知新館版「理学初歩」は格物の本である。

同じ頃用いられた「窮理学」も単なる「理学」と共に両用に混用せられていたように見える。」
4月13日

ここで理学の語をもって、哲学の訳字として使用するよう提案するならば、この提案に於いて

は、西周が哲学の訳字を創出した事情に理解を与える姿勢を顧みずに、
4月14日

単に現今の文字使用の一般知識と状況とを踏まえた態度のみが存しているのであるから

文字使用の一般状況で生じる問題点を指摘すれば十分であろう。
4月15日

現在において、理学の語が見いだされるのは、学科分類と書籍分類の名称として、数学、物理学、化学などの自然科学、及び工学を指して用いら

れる場合であり、そのような用法として定着している。幕末から明治初頭にかけて生じた理学の語の混用は、理工学を指す意味の方向に収束したのである。
4月16日

この収束状況が、現に生起しているというのに、それでも理学の語を使用するよう提案することの愚かさは、直ちに明白であろう。既に存在している用法との区別を、いかにして立てることが出来るのであろうか。

敢えて併用したとして、両者の意味の違いを常に喚起し続けなければならない煩瑣で以て、人々を煩わさせ続けようというのだろうか。この考えただけで物憂い混乱を伴うとすれば、理学の語を用いる利点は、ほとんど見いだし難いであろう。
4月17日

麻生義輝は、先に引用したところに続いて、次のような評価を与えている。
「これらの言葉は如何に用いられていようともすべて漢語をそ

の儘利用したものであって、何ら思索の迹は認められない。
之に較べると、西周助、津田真一郎等の鋳造した「希哲学」は深き考窮の産物であったと考えられる。
4月18日 漢学の支配力を抜けた「国字」

彼ら両人は何れ漢学に就いても深い教養があって、特に西周助の如きは周濂溪の「太極図説」の説を歓び、ここに述べられている「士は賢を希ふ」の思想に深く影響せられていたのであるから、

希哲学という訳字の源流を尋ぬれば、漢学の支配力の一産物であるかに考えられるけれども、この支配力から脱出して、新しき訳字を創り出そうとした思索と努力とは充分高く評価せられねばならぬ。」
4月19日 この引用の末文に述べられるごとく、新しい訳字を創り出そうとした思索と努力に、適切なる敬意と理解を与えるべきである、という態度を私も取るものである。 およそ、哲学の訳字に変えて、別の文字を選んで宛てる提案は、この払うべき敬意と、尽くすべき理解を欠いた態度から、発せられている。
4月20日

現在の我々の文字知識が、先人達に比して、漢籍に基づく文字理解を遥かに欠落させてしまい、明治や、とりわけ戦後の言語使用の中での

文字理解に留まる傾向があるとしても、そのことをもって、現在の文字理解に相応する文字を新しく選定する必要性も、妥当性も引き出すことできない。
4月21日

我々の現代の国語は、漢文や古典国語からの、完全なる訣別とも言えるような変質を未だ生じていないからである。

恐らく、そのような離別が起きることは、ローマ字を採用するか、強国への完全な隷従に置かれるか、するのでもなければ、将来もあり得ないであろう。
4月22日

現在、漢文や古典国語との連携が薄れつつあるかに見える状況にあるとしても、両者は、これまでもそうであったし、またこの先もそうであるように、

我々の国語を豊かにする養い手であり、我々の国語を支える目に見えぬ土台であり、我々の国語の永遠の故郷なのである。
4月23日

やがて幕命により、榎本武揚らとともにオランダ留学し、2年半、法律学や経済学、それにミルの帰納法、カントの哲学などを学んで帰国した。

1856(慶応2)年、幕府開成所の教授となり、津田真道・加藤弘之らと開成所授業規則を作成した。この年、幕府の直参に取り立てられ、15代将軍徳川慶喜のフランス語個人教授となった。
4月24日 その後、単に語学のみならず、政治・行政などさまざまな面で意見を述べた。一方、彼は兵学にも見識を持っていたので、幕府の沼津兵学校校長も務めた。 明治2年、明治政府に出仕し、陸軍省の官吏になったのも、そうした識見を認められてのことであった。
彼はここで軍人勅諭を起草した
4月25日 周は陸軍省に在籍しながら、森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと明六社を結成し、欧米の啓蒙思想を紹介し、 機関紙「明六雑誌」を発行した。明治初期の文明開化政策の推進などに大きな啓蒙的役割を果たしたのである。
4月26日

維新期の教育・文化と軍事は、ともに欧米の思想・制度に基づいており、開明的な点では共通性があった。

だから、明六社のメンバーであることや、のちに東京師範学校初代校長になるのだが、そのことは別に不自然ではなかったのである。
4月27日

1890(明治23)年、帝国議会開設にあたり、周は貴族院議員に任じられた。1897(明治30)年1月、病重しとみた政府は、勲一等瑞宝章、次いで男爵を授けたが、その直後、131日、69歳で永眠。

振り返ってみれば、周は栄達の道をばく進しているが、決して猟官運動をしたのではない。彼の深い学殖が認められたからにほかならなかった。
4月28日

周は明治前期の学者のなかでも、福沢諭吉のように政府の外部にあって自由主義を説く立場をとらず、体制内にあって漸進的立憲君主制の立場をとった。

そのため、御用学者とみなして過小に評価する意見もないではないが、むしろ、着実な近代化路線の理論的指導者として、高く評価すべきである。
4月29日 「西周」は不朽

周の名を不朽のものにしたのは、数々の訳語が学術用語として定着していることである。

哲学がもっとも有名だが、そのほか、学術・芸術・科学・技術・主観・客観・帰納・演繹・本能・概念・観念・命題・肯定・否定・現象・心理学・意識・抽象・主観・客観・理性・悟性・知覚・感覚・総合・分解等々。
4月30日 五箇条の御誓文も「西周」作

すべて周のつくった訳で、今では完全な日用語になっている。彼が近代日本の思想界に与えた影響の大きさがうかがえる。

また、五箇条の御誓文の草稿を執筆したのも西周だと言われている。